磐衝別命についてー母が二人?

 「国造本紀」では、磐衝別命を産んだ垂仁天皇の妃を丹波道主命(たんばみちぬしのみこと、たにはのみちぬしのみこと)の娘の真砥野媛(まとのひめ)とし、同母兄弟に祖別命(おおじわけのみこと)がいるとの異伝を伝えています。『記紀』では、異母兄弟としています。  
 磐衝別命の父は垂仁天皇で異伝はありませんが、母については山背大国不遅(やましろのおおくにのふち)の娘の綺戸辺(弟苅羽戸弁)とする説と、丹波道主命の娘の真砥野媛との二つの説があります。山背大国不遅はどういう人なのかわかりませんが、山背とあることから、山城国に関係のある人物かと思われ、建角身命は大和から山城に本拠地を移していますから、建角身命を祖とする賀茂県主一族と交流があった可能性があります。『日本書紀』によると、垂仁天皇が山背国に行幸して、山背大国不遅の娘の綺戸辺を召して生まれとされています。磐衝別命の同母妹が両道入姫命ということですが、両道入姫命は日本武尊の妃で第14代仲哀天皇を生んでいます。『日本書紀』によると仲哀天皇が即位した時に「母の皇后を尊びて皇太后と曰す」とありますが、父の日本武尊は皇位に就いていませんから、彼女が皇后であったわけではありません。彼女が実在していたかどうかは明らかではありません。この伝承によると、日本武尊は磐衝別命にとって妹の夫になり、仲哀天皇は甥になります。華麗なる一族です。両道入媛命を祀る神社として、日本武尊を祀る和泉国一宮の大鳥大社の境外摂社の大鳥羽衣濱(おおとりはごろもはま)神社があります。住所は大阪府高石市羽衣5ー2ー6。
 もう一人の母とされる真砥野媛は丹波道主命の娘で、姉が日葉酢媛です。日葉酢媛は垂仁天皇の皇后となり、景行天皇や伊勢神宮の斎王の倭姫命を生んでいます。日葉酢媛が亡くなった時に、天皇は殉死の習慣を止めさせ、それに代わるものとして野見宿禰が埴輪を作って墓に収めたといわれています。日葉酢媛の御陵は奈良市山陵町(みささぎちょう)にあり、宮内庁では「狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」に治定されています。前方後円墳で、遺跡名は「佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)」。隣には、第13代成努天皇陵があり、宮内庁では「狭城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)」。前方後円墳で、遺跡名は「佐紀石塚山古墳」。丹波道主命(日本書紀の表記)は、『古事記』では丹波比古多多須美知宇斯王、たんば(たには)ひこたたすみちのうしのみこ。と表記され、第9代開化天皇の皇孫で、四道将軍の一人として丹波に派遣されました。垂仁天皇の最初の皇后であった狭穂姫(さほひめ)は兄の狭穂彦の謀反の企てで兄の味方をして天皇軍の攻撃を受け自害する前に丹波道主命の5人の娘を後宮に入れるように遺言します。『日本書紀』では垂仁天皇5年10月のこととされます。天皇はそれを受け入れます。それで日葉酢媛、渟葉用瓊入媛、真砥野媛、薊瓊入媛、竹野媛が召し出されました。このうち竹野媛は丹波に戻されたと伝えられています。京都府京丹後市久美浜町新町には全国で唯一丹波道主命を祀る神谷太刀宮(かみたにたちのみや)神社があります。この神社は由緒の異なる二つの神社、神谷神社と太刀宮神社が合祀された二社一体の神社です。太刀宮の祭神が丹波道主命で、御神体は命の佩刀(はいとう、身に帯びた刀)の「国見の剣」です。この「国見」から「久美浜」の地名が生まれたとの説があります。
 磐衝別命の母はこの二人のどちらであったかは不明ですが、景行天皇とその子の日本武尊、そして孫の仲哀天皇につながり、そして仲哀天皇にとって6世の孫(
仲哀天皇の息子の応神天皇の5世の孫)である継体天皇にも縁があることになります。そして綺戸辺は後述の羽咋神社の祭神でもあります。

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