穂積さんから鈴木さんへ

穂積氏で歴史上の人物として最初に登場するのは6世紀前半の穂積押山(ホヅミノオシヤマ)です。彼は第26代継体天皇時代の朝鮮半島にあった任那(みまな)の国守で、百済(くだら)への任那4県の割譲(支配承認)に関して重要な役割を果たした人物で、百済王とは特別の関係があったとされています。
押山から150年ほど後の天武天皇13年(684)の八色の姓(やくさのかばね)制定に伴い穂積氏は52氏の一つとして朝臣姓を賜ります。
持統天皇5年(691)には先祖の墓記を上進するよう命じられた18氏の中に穂積氏も含まれており、穂積氏の記録が『日本書紀』に反映されています。
奈良時代になると歌人として万葉集に歌が収められている穂積老(ほづみのおゆ)が知られており、聖武天皇の天平16年(744)難波京への遷都の際に恭仁京(くにきょう)の留守官に任じられています。
穂積老以降の穂積氏は勢力が振るわず、平安時代に入ると穂積氏の任官が絶えます。そのためか老の子とされる穂積濃美麻呂(ほづみののみまろ)が熊野に移住し、そして熊野系の穂積氏の始祖となります。彼は摂津国島上(しまかみ)郡野見(のみ)里に住んでいましたが、後に熊野に移り速玉大社の神職になります。最初に住んだ野見里にちなんで濃美麻呂と名乗ったのでしょう。島上郡野見里は現在の大阪府高槻市で、野見の名前は野見宿禰に由来し、野見宿禰の末裔の菅原道真を祀る上宮(じょうぐう)天満宮があります。濃美麻呂が熊野に移住した理由ついては、「熊野穂積氏の初代は役行者の弟子?」で、子之神社(ねのじんじゃ)の伝承を基に説明します。
濃美麻呂の次男が忍麻呂(おしまろ)で、彼が最初に速玉大社の禰宜になります。以後忍麻呂の子孫が紀州熊野系の穂積氏として速玉大社の禰宜を世襲します。忍麻呂の子は息嗣。ここまでは奈良時代。息嗣の長男は財麿(ざいまろ 財麻呂)。古代氏族系譜集成の穂積氏系図には弘仁3年(812)に大鳥居側に手力雄神(タヂカラオ)を鎮座し奉ったと記されています。財麿の子が永成で永成の子が豊庭で、豊庭の子が国興(くにおき)です。忍麻呂から国興まで代々速玉大社の一禰宜を務め、そのうち息嗣は大社の物忌(ものいみ)領、豊庭と国興は御倉領と物忌領を兼務しているとの記録があります。国興までの系譜をまとめると、濃美麻呂ー忍麻呂ー息嗣ー財麿ー永成ー豊庭ー国興になります。国興は藤白鈴木氏をはじめ熊野三党の始祖となるキーパーソンです。生没年は不詳ですが平安時代前期の人です。国興の長男が基雄(もとお)で大社の禰宜職を継承します。次男の基行(もとゆき)が藤白に移り、鈴木氏を名乗ります。穂積さんから鈴木さんになった最初の人です。三男基衡(もとひら)は飛鳥大行事になります。飛鳥大行事とはすでに説明していますが、阿須賀神社のことで、同社のトップになったということです。さらに熊野三党のうちの榎本氏の祖の榎本真俊(まさとし)、宇井氏の祖の宇井基成(もとなり)も国興の子供であるとの伝承があります。
速玉大社の境内末社の「鑰宮(かぎのみや)手力男神社(祭神 天之手力男命)」ですが、現在は大社境内で八咫烏神社と並んで祀られています。もとは神門内にあったのを嵯峨天皇の勅命により大鳥居側に遷したとのことで財麿がそれに関わったということです。「鑰」は「鍵」で、鑰宮ということから大社の鍵を管理するいわば金庫番のような役目があったということになります。


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