乙訓坐大雷神社の論社ー菱妻神社

 山城国風土記逸文にある別雷神の父親の火雷神を祀るという式内社の乙訓坐大雷神社の論社の三つ目は菱妻(ひしづま)神社です。菱妻神社は京都市には伏見区久我石原町(こがいしはらちょう)3―27と南区久世築山町(くぜつきやまちょう)367の二ヵ所あります。どちらも式内社の簀原(すはら)神社の論社とされ、またどちらもかつては「火止津目(ひしづめ)」大明神と言いました。「ひしづめ」とは「火鎮め」という意味で、火伏せの神ということになります。火に関わるところから火雷神との関連があるということになります。 
 伏見区の菱妻神社の祭神は天兒屋根命(アメノコヤネ)。由緒は、平安時代の永久元年(1113)2月、久我(こが)家の祖、右大臣源雅実(みなもとのまさざね)が奈良の春日大明神で藤原氏の祖神の天兒屋根命を勧請し、当初、火止津目大明神と言いました。後の久寿元年(1154)に「火止津目」の字を水徳があるとして「菱妻」と改めて現在に至っています。
 この神社は、東から鴨川、西高瀬川、桂川が流れる地点にあり、桂川の西にあります。そのためたびたび川の氾濫で被害を受けます。特に長承3年(1134)の桂川の氾濫で社地が流されています。そういうこともあってか20年後に改名されています。この神社には春日大社とのつながりを示す伝承があります。境内の巽(東南)に惣門があり、奏聞口とも言いましたが、この門は辰の上刻(午前7時)まで人の通行を禁じていました。その訳は、毎日南都(奈良)から白鹿が訪れこの門を通り、卯の刻(午前6時頃)に南都に帰って行くと謂れていたとあります。
 この神社は中世には周辺の久我上(こがのかみ)庄の鎮守となり、上久我大明神とも呼ばれました。天保6年(1835)に現在の本殿が建てられました。
 この神社へのアクセスは、近鉄または地下鉄の竹田駅の西口から京都市バス18系統、または南1、南2、特南2系統で、「菱妻神社前」下車徒歩2分。参道の中を名神高速道路が東西に横切っています。
  この神社の公式サイトには、式内社の簀原神社ではないかとする学説もあります。と書かれていますが、火雷神についての言及はありません。
 南区の菱妻神社の祭神は大己貴神(オオナムチ)です。延喜式神名帳に記載の簀原(すはら)大明神が前身とされています。古文書によれば、十二世紀はじめ簀原の地に建立された火止津(ひしつめ)大明神が桂川の大洪水で流失し、下流の久我の地に再建されたとあります。この説明では当社は伏見区の菱妻神社の元宮ということになります。当社は流失した跡地に簀原大明神を奉じて鎮座したものと思われるということです。十三世紀頃に社名を乙訓坐火雷神社に、十六世紀頃に菱妻神社に変更したとされています。境内社には、磐裂(石神)、加茂、春日、蛭児、松尾、稲荷が祀られています。
 この神社のほうが、式内社の簀原神社の可能性が高いと思われます。また一時乙訓坐火雷神社と称していたことから、火雷神社の論社とされているようです。ただこの神社は、火雷神社よりも簀原神社の可能性のほうが高いと思われます。
 この神社へのアクセスですが、JR向日町駅から徒歩30分。JR桂川駅東口から徒歩27分となっています。
 山城国乙訓郡の式内社簀原神社は南区の菱妻神社に祀られていると言われていますが、祠がないとのことで実際はどうなのかよく分かりません。簀原神社の祭神は大己貴神ということですから、伏見区も、南区の菱妻神社もどちらも別雷神の父神を祀る乙訓坐大雷神社ではないように思われます。



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