御生神事の起源(1)
「大津市の小野神社」で書いたように、八瀬にあった原初の小野神社は小野氏により「湧水の岩」で祭祀が行われていたのが、賀茂氏の勢力拡大に伴い、司祭者が小野氏から賀茂氏に代わり、祭祀の形態も小野氏の祭神に由来する「しとぎ」を作るための水を祀るということから、新しく生まれた神霊の降臨を迎えるということへと変わりました。その時期についてですが、下鴨神社が上賀茂神社から分離したのは奈良時代の孝謙天皇の天平勝宝2年(750)頃と考えられ、下鴨神社では祭神の降臨地を早急に見つけなければならなくなりました(分離以前は上賀茂神社の降臨地で祭祀を行っていましたから)。そこで目を付けたのが、「湧水の岩」です。これは上賀茂神社の上流にある貴船神社を意識して、それに対応して下鴨神社の上流の高野川沿いにある磐座ということが選ばれた理由と考えられます。『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』によると、貴船神社はもともとは賀茂氏と無関係の地主神を祀っていましたが、上賀茂神社の丹塗矢伝承の河上社として摂社化されました。上賀茂神社の丹塗矢伝承は祭神の誕生の由来となる重要な伝承ですから、機会をあらためて紹介します。川の上流にある神社を神の降臨地として祀るということで、貴船神社に対して元の小野神社が選ばれたということになります。それではその時期がいつかということについて『小右記』の内容をみてみたいと思いますますが、その前に『鞍馬蓋寺縁起』について説明します。この縁起は鞍馬寺の成り立ちを知る上でまず挙げられる資料で室町時代に纏められ「大日本仏教全書」に収められています。鞍馬寺は鑑真の高弟の鑑禎(かんてい)が宝亀元年(770)に草庵を結び毘沙門天を安置したことに始まります。
『小右記』は前にも書いています(「八咫烏の荒御魂を祀る御蔭神社その2」)が、この日記は御生神事の起源について述べる場合に必ず登場する重要な資料です。寛仁ニ年(1018)11月25日条「被奉寄賀茂上下郷、郷事可定申也、栗栖野小野二郷上下社司各申、但昨日下社司久清進解文、可尋旧記、皇御神初天降給小野郷大原御蔭山也云々、亦栗栖野可為下社之山、有採桂葵山之由、先年給官符、仍小野并栗栖郷、可為下社領者、令仰降坐御蔭山之記文可進之由所、申云、康保二年、禰宜宅焼亡次、焼失者」とあります。この文章の中でよく紹介されているのは「皇御神初天降給小野郷大原御蔭山」という部分です。ここでは下鴨神社の祭神が初めて降臨したのは小野郷の御蔭山であるということが書かれています。この文章全体の内容を説明する前に、まず文中にある「解文(げぶみ)」ですが、解状(げじょう)とも言い、平安時代から戦国時代初めにかけて官人が個人的に、また庶民や寺社などが朝廷、貴族、荘園領主などの上級者に上申する際の文書様式です。律令制において、下級官僚が上級官僚に上申する際に用いた「解」という文書様式があり、それと区別するために、「解文」、「解状」と呼ばれました。ここでは下鴨神社の社司の久清が上級者である朝廷に文書を差し出したという意味になります。
小野郷については既に書いていますが、栗栖野郷は現在の松ヶ崎や宝ヶ池になります。高野川の西側です。「御蔭祭」が「赤の宮」の路次祭の後、宝ヶ池に向かうのは、栗栖野郷が下鴨神社と関係があったからです。
康保(こうほう)ニ年は965年で村上天皇の治世です。
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