矢田坐久志玉比古神社

奈良県大和郡山市矢田町(やたちょう)965に矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社があります。この神社は楼門に吊り下げられた大きなプロペラが参拝者を迎えてくれます。このプロペラは旧帝国陸軍の最初の単葉式戦闘機で中島飛行機(スバルの前身)が製作した「九一式」のものです。このプロペラの後ろに掲げられているのは「航空祖神」の額。源田実(げんだみのる)氏が奉納したもので、氏は戦後の自衛隊創設にあたり初代航空幕僚長となり、ブルーインパルスを創設し、航空自衛隊育ての親といわれます。この神社は航空の神様を祀っていることを強くアピールしています。航空自衛隊のPRをしているわけではありません。
この神社の祭神は櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)とその妃、御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)命。神社の名前の「久志玉」の「久志」は「櫛」とも「奇」とも表現され、「不思議な霊能力を持つ者」を意味します。
この神社は延喜式神名帳の大和国添下(そえじも)郡の神社のトップに掲げられた名神大社(みょうじんたいしゃ)で格式の高い神社です。
この神社に伝わるニギハヤヒの伝承では、ニギハヤヒは哮ヶ峯に降臨した後、住む場所を決めるために再び空に上がり、三本の矢を放ったところ三本ともこの地に落ち、そのうちの二本目の矢が落ちたところに住むことにしたといい、それでこの神社は「矢落(やおち)大明神」とも呼ばれます。この二本目の矢が落ちた場所は境内の「二の矢塚」とされ、ここには縄でぐるぐる巻きにされた岩があります。この岩は「舟人神」と呼ばれ、天磐船の欠片とも、船が着陸したときに下から盛り上がってきたともいわれます。縄が巻かれているわけは、この神社の氏子さんの中に宮座が残っており、その氏子さんたちはニギハヤヒが降臨の際に防衛(ふせぎまもり)として従った三十二人の供奉衆の子孫であるとの伝承が残っており、その人たちが毎年この岩に縄を巻きつけてお互いの出自を確かめあっているそうです。まさにニギハヤヒの足跡が残っています。ちなみに三の矢が落ちた場所は東明寺(とうみょうじ)。この寺は矢田町2230にあり、高野山真言宗で山号は鍋蔵山(かぞうざん)。持統天皇7年(693)舎人親王の開基と伝わり、江戸時代は久志玉比古神社の別当寺。本尊は薬師如来。また一の矢が落ちた場所は神社の南1km付近で、現在は民家の物置になっているそうです。
この神社のある場所は白庭山ともいわれます。白庭山はニギハヤヒの墓所でもあり、生駒市にも白庭台があります。したがってニギハヤヒはここに住んで、ここで亡くなって葬られたということになります。
この神社を北に行くと近鉄奈良線の「富雄」と「学園前」。南に行くと法隆寺があります。ナガスネヒコが支配していた
と思われる場所です。神社は矢田小学校に隣接し、近くにはアジサイで有名な矢田寺(金剛山寺)や大和民俗資料館があります。近鉄橿原線「郡山」駅から「JR大和小泉」駅行きバスで15分「横山口」バス停下車徒歩10分。
当社の祭神は明治維新後、「玉」に由来して天太玉命となります。明治45年(1912)に元に復帰したいとの氏子からの上申があり、許可されて現在の祭神に戻ったそうです。祭神が神武の敵であるナガスネヒコとの関係が深いというのが原因だったのでしょう。
矢田坐久志比古神社については次章に続けます。









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