八瀬は小野氏の本拠地
小野神社は『延喜式神名帳』に「山城國愛宕郡小野神社二座鍬靭」とある式内社です。小野氏の創祀によりますがその時期は不明です。小野毛人が677年にこの地に埋葬されていますから、その頃には既に小野氏が祭る何らかの施設があったと思われます。その後、座田守氏さんの論文にあるように小野氏の本拠地が近江に移ったため、代わりに賀茂氏が祭祀を行うようになり、それが御蔭神社であり、その結果小野氏の祭祀施設は失われてしまったということになります。それが昭和46年に地元の人によって再建されましたが、神社再建には小野毛人の墓の存在がその理由と思われます。現在の祭神は小野妹子と小野毛人。創祀当時の祭神とは異なると思われます。当時の祭神については近江の小野神社の祭神が手がかりになります。これについてはあらためて紹介します。現在の小野神社の場所は崇道神社の境内、京都市左京区西明寺山(さいみょうじやま)34です。アクセスは叡山電鉄本線「三宅八幡」駅から7分、「八瀬比叡山口」駅から10分。叡山電鉄鞍馬線「八幡前」駅から10分です。
座田守氏さんの論文にある「出雲高野神社」は、小野神社と同じく式内社で、祭神は玉依媛命。この祭神が下鴨神社や御蔭神社の祭神なのか、神武天皇の母なのかは分かりません。式内社ということで、大正4年(1915)に崇道神社の境内社として再建されました。
小野毛人は飛鳥で亡くなりましたが、墓は飛鳥から離れたこの場所に造られました。毛人を葬るのにふさわしい場所であり故人にゆかりの場所ということが分かります。
『小右記』に「小野郷大原御蔭山は皇御神が天より降りた場所である」とあります。(当ブログ「八咫烏の荒御魂を祀る御蔭神社(2)」)。御蔭神社のある場所、すなわち八瀬は小野氏にちなむ小野郷と呼ばれていたということです。小野氏の本拠地であったということになります。
小野毛人の父親の妹子(妹子と言いますが、男性です)の墓とされる場所が二ヵ所あります。一つは大阪府南河内郡太子町(たいしちょう)にある科長(しなが)神社の南にある小高い丘の上にある小さな塚が妹子の墓とされています。塚の規模は東西15m、南北11m、高さ3m余りで楕円形です。この墓は華道の「池坊」が管理しています。なぜ池坊が管理しているかというと、聖徳太子が京都に六角堂(頂法寺)を建て、太子の持仏の如意輪観音を本尊として祀るように妹子に命じました。六角堂最初の住職となった妹子は「小野妹子専務」と称し、境内の池の傍らに住んで朝夕花を供えたということです。池の側の坊舎で「池坊」。これが華道「池坊」の起こりで、代々の家元は「専務」から「専」の文字を受け継いでいます。池坊では毎年6月30日に 墓前祭を行っています。
またこの墓は2017年(平成29)4月28日に登録された日本遺産44「1400年に渡る悠久の歴史を伝える最古の国道」の構成文化財「小野妹子墓(おののいもこぼ)」になっています。
「科長神社」は風の神の級長津彦(シナガツヒコ)、級長津媛(シナガツヒメ)を祀り、元は二上山山上に鎮座していました。現在の所在地は太子町山田3778。なお科長神社には神功皇后の誕生地だとの伝承もあります。
太子町には、聖徳太子の墓のある叡福寺や、推古天皇の陵墓があり、推古天皇や聖徳太子に仕えた小野妹子の墓所としてふさわしい場所と言えるかもしれません。
もう一ヵ所は滋賀県大津市にあります。次章で紹介します。