向日明神の伝承その4ー広隆寺の秘仏薬師如来像の2薬師如来像が2体

 平安時代の寛平2年(836)の『広隆寺資財交替実録帳』には、安置仏の筆頭に「霊験薬師仏檀像壹躯居高三尺在内殿」と記されています。この時点では薬師如来像が本尊です。薬師如来像を本尊に据えたのは先にも述べていますが道昌だと思われます。この実録帳には「居高三尺」とあります。つまりこの薬師如来像は坐像でした。秘仏薬師如来像は立像です。それが室町時代の『広隆寺縁起』や『広隆寺来由記』には、「檀像薬師如来像高三尺」となっています。つまり立像になっています。そしてこの薬師如来像が秘仏薬師如来像ということになります。坐像の薬師如来像から立像に本尊が変わっています。ではいつ頃本尊が変わったのかについて、伊東史朗(いとうしろう)氏は『広隆寺本尊薬師像考』(学叢18号、平成7年1995、3月31日)で、久安6年(1150)の火災で、実録帳にある坐像の薬師如来像が焼けてしまったからではないかとしています。なお、この新しく本尊となった薬師如来立像は現在薬師堂に安置されている「祖師堂薬師像」ではないかという説があります。
 『学叢』は京都国立博物館が毎年発行している研究紀要です。筆者の伊東史朗(いとうしろう)氏は1945年岐阜県生まれ。1970年名古屋大学文学部美学美術史専攻。和歌山県立博物館長をされました。
 鎌倉時代になると、広隆寺は薬師信仰の寺から聖徳太子信仰の寺へと変貌していきます。現在の広隆寺の本尊は、本堂にあたる上宮王院太子殿(じょうぐうおういんたいしでん)に安置されている聖徳太子像です。この像は、元永3年(1120)に僧、定海が発願した像で、像内に仏師頼範の造立銘があり、太子が秦河勝に仏像を賜った時の33歳の姿であり、下着姿の像に着物を着せて安置されています。この衣装は天皇が即位などの重要な儀式の際に着用する黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)で、寺では天皇より贈られたこの衣装を本像に着せています。この習わしは平安時代から現代まで続いています。本像も秘仏であり、霊宝殿の秘仏薬師如来像と同様に11月22日のみ拝観できます。鎌倉時代以降はこの聖徳太子像が実質的な本尊とみなされるようになりますが、あくまでも広隆寺の本尊は薬師如来像であり、江戸時代の地誌の多くは本尊を薬師如来としています。
 こうして広隆寺の信仰の対象である本尊は弥勒仏から薬師如来、そして聖徳太子へと変わりましたが今また広隆寺を代表する仏像が弥勒仏となっているのは興味深いものがあります。
 新霊宝殿は広隆寺の仏像を中心とした文化財を収蔵展示する施設として昭和57年(1982)に造られました。それまで使われていた旧霊宝殿は新館の西側にあります。こちらは大正11年(1922)聖徳太子1300年忌に建てられたもので、現在非公開。広隆寺の本堂の上宮王院太子殿は享保15年(1730)の建立。
 境内の薬師堂に安置されている木造薬師如来立像は平安時代前期の作で、像高101.3cm。この仏像も秘仏薬師如来像と同じく吉祥天のような姿をしているそうです。 
 広隆寺の旧本尊であった薬師如来像が二体あることになります。向日明神の由来を伝える薬師如来像は秘仏薬師如来像か薬師堂に安置されている薬師如来像なのか。一般的には前者だと思われますが、後者の可能性も否定できません。
 元永(げんえい)は1118から1120年。この時代の天皇は鳥羽天皇。
 『広隆寺資財交替実録帳(こうりゅうしざいこうたいじつろくちょう)』は広隆寺が所蔵する平安時代の文書で、昭和28年(1953)に国宝に指定されています。
 広隆寺は阪急電車の「大宮」駅で下車、京福電鉄嵐山本線(電電、らんでん)に乗り換えて嵐山方面6つ目の「太秦広隆寺」駅前にあります。



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