真弓塚はニギハヤヒの墓?(2)

谷川健一(たにがわけんいち)氏の著書『白鳥伝説』に、「真弓塚」について書かれていますので、概略紹介します。
この場所は、大和、河内、山城の境目にあたり、河内からはじめて大和平野に進出した物部一族がこの真弓塚にのぼって日神ニギハヤヒを祀ったとしても差し支えない。今は樹林に蔽われているが、その樹林がなければ、三百六十度の視野をもつ円丘が真弓塚である。高さは二○○メートルに足りないが、大和平野を一望のもとに納め得る。とあり、そして物部氏はこの真弓塚で東から昇る太陽神、この場合は日神ニギハヤヒを拝したとしています。真弓塚は長弓寺が創建されるはるか昔に物部氏によって、ニギハヤヒを祀る祭祀が行われていたということを述べられています。谷川健一氏は、1921~2013。民俗学者。近畿大学教授でした。『白鳥伝説』上下は初版が1986年集英社から出ました。『白鳥伝説』の第二章には物部氏の東遷が、第三章の邪馬台国の東遷の中にニギハヤヒと妻ミカシキヤヒメの廟社についてが書かれています。
『大和志料』にはニギハヤヒとミカシキヤヒメの廟社が長弓寺の場所にあったと書かれています。それに関連して、このブログの「登彌神社とニギハヤヒの墓」に書いています「登彌(登弥)神社」が長弓寺の境内にある「伊弉諾神社」であるとしています。伊弉諾神社は延喜式神名帳にある「伊射奈岐神社」に比定されています。長弓寺が創建された時に寺の鎮守社として創建され、大宮には牛頭天王を、若宮には八王子を祀ったとされます。明治の神仏分離で長弓寺から独立し、牛頭天王を素盞鳴尊としました。現在は伊弉諾尊と大己貴命も祀っています。現在も長弓寺の境内にありますが、住所は生駒市上町(かみまち)4447です。また境内社として「熊野神社」があります。
長弓寺の鎮守社として創建されたとされますが、長弓寺に参るにはまず伊弉諾神社の鳥居をくぐることになります。そこからまず最初に神社があって、その後に寺ができて、寺の側から創建の伝承が作られたのではないかという説が生まれます。それが『大和志料』で展開されています。
『大和志料』によれば、ニギハヤヒの天羽羽弓などを納めた場所が真弓塚であり、式内社の登弥神社は大宮牛頭天王であり、若宮には息子のウマシマヂを祀っていたとされます。さらに長弓寺の場所はナガスネヒコの旧跡で、ミカシキヤヒメとニギハヤヒの霊廟もここにあったとしています。これは『大和国陳迫名鑑図』に、「鳥見の長弓寺の八坊は長髄彦の旧跡であり、饒速日命とその妻の御炊屋姫の廟社があり、(以下略)」とあるのが『大和志料』に採り入れられたものです。石上神宮の『布留神宮旧紀』には「櫛玉饒速日尊は大和国鳥見明神河内国岩船明神是也」とあり、ニギハヤヒは大和では鳥見明神として祀り、河内では岩船明神として祀っていたということですが、岩船明神は交野市の磐船神社であり、鳥見明神は長弓寺境内にある伊弉諾神社であって、ここは本来は登弥神社であり、ニギハヤヒとミカシキヤヒメの廟社であったと結論付けています。谷川健一氏の『白鳥伝説』の文章もこの『大和志料』の説に基づいていると思います。 
それではどうして桧窪山にある塚がニギハヤヒの墓所とされたのでしょうか。『生駒市誌』に収められた池田勝太郎氏の論文に、「鳥見白庭山は、北倭村の白谷にある。白谷の名は白庭山の遺称」に基づいたもののようです。これには真弓塚が寺の創建と密接に関わる伝承をもつ長弓寺の働きかけがあったかもしれません。私としては、山の中のわかりにくい場所よりも比較的便利で、寺によって管理されている真弓塚のほうが、ニギハヤヒの墓にふさわしいと思います。何よりも時間の経過で本来の墓の主が忘れられ、全く違う人物の墓となっているのは謎の多いニギハヤヒらしいと思います。
『大和志料』は大正3年(1914)から4年(1915)にかけて奈良県教育会が出版したものです。
真弓塚は近鉄学研北生駒駅から学園前行きバスで約3分、真弓三丁目バス停下車徒歩約5分です。駅から歩いてもそれほど遠くはなさそうです。長弓寺の境内ではありません。



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