大津市の小野妹子の墓

小野妹子のもう一ヵ所の墓は滋賀県大津市水明(すいみょう)2丁目29にある「小野妹子公園」の中にある史跡「唐臼山(からうすやま)古墳」です。この場所は現在は大津市ですが、以前は滋賀郡志賀町小野水明でした。平成18年(2006)に志賀町は大津市に編入されました。滋賀郡は志賀町のみでしたから、滋賀郡も消滅しました。「小野妹子公園」はJR湖西線「小野」駅から徒歩15分。市立小野小学校の南、びわこローズタウンの一角にあります。びわこローズタウンは、京阪電鉄が開発したニュータウンて、元からの大津市域の西地区と旧志賀町の東地区に分かれています。東地区は琵琶湖に面しています。小野駅も小野小学校も小野妹子公園もかつては志賀町大字小野でした。小野小学校はニュータウンの人口増加に伴い、昭和55年(1980)に和邇(わに)小学校から分離して志賀町立小野小学校が設立されました。現在の所在地は大津市水明一丁目34番地2。また小野駅もニュータウンの最寄り駅として京阪電鉄の出資による請願駅として昭和63年(1988)に開業しています。旧志賀町の南端に位置します。京都からは堅田(かたた)→小野→和邇になります。ということで、この場所は小野氏に由来する地名になっています。
唐臼山古墳の墳丘上に「小野妹子神社」があり、境内の由緒書きには、外交、華道の祖神 小野妹子神社(祭神•大徳冠位小野妹子命) 推古朝の廷臣、妹子は遣隋使として外国に行かれた先駆者である。西暦六○七年聖徳太子が中国の隋朝と外交を開くに当り、遣隋使となり国書をもって渡海する。それには「日出ずる国の天子日没する国の天子に書をいたす」と記され、大国隋へ対等の外交交渉を拓り開き日本の力を海外に示された外交史上有名な神徳の高い祭神である。今も神社へは外交官、駐在員の参拝が多い。又、妹子は華道の創設者として今も華道家元「池の坊」にあって免許の授与が受け継がれている。社殿は古墳上にあり、裏の石垣のあとは、妹子の墓、唐臼山古墳である。と書かれています。またウィキペディアによると、唐臼山古墳の南に妹子の父(春日小野仲若子)の墓の可能性が指摘されている古墳がありましたが、大津市教育委員会の調査のあと破却されたため現存しないということです。唐臼山古墳は西側の封土が流失しており、破損した箱形石棺状石室が露出。石室は現状南北5.75m、幅1.5m、高さ1.7mでこの様な構造を持つ古墳は滋賀県でも3例しかなく、大和朝廷の官人層だけが築造できるという指摘があります。石室内には玉石が置かれ、その上にあった須恵器から7世紀前半の築造と推定されています。小野妹子の生没年は不明ですが、推古天皇に仕えていますから、7世紀前半に亡くなったことは十分に考えられます。
大阪府太子町の墓は周辺に推古天皇や聖徳太子の墓があり、その関連が考えられます。大津市の墓(唐臼山古墳)は小野氏にゆかりの場所にあります。父の墓の可能性のある古墳があったということからも、この場所は妹子の出身地になります。この古墳の被葬者を小野妹子とする記録は江戸時代から存在します。前述のように、この古墳が7世紀前半の大和朝廷の官人だけが造ることを許された構造の石室を持つことから、状況証拠では十分に小野妹子の墓の可能性が高いです。死後に生まれ故郷に埋葬されたということになります。なお大津市歴史博物館のサイトでは、妹子の墓の可能性は低いとあります。ただこのサイトにはその根拠が示されていません。息子の毛人のように墓誌があればと思います。
「小野妹子神社」は「小野神社」の境外摂社です。小野神社について次章で紹介します。

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