伊予湯岡碑の原文

 聖徳太子が596年に道後温泉を訪れて作ったとされる「伊予湯岡碑」は現物は伝わっていませんが、『伊予国風土記』にその内容が転載されています。ただしこの風土記の原本も失われていますが、『釈日本紀』や『万葉集註釈』にその文章が収められており、逸文という形で現在でもその内容を知ることができます。以下に逸文の原文を引用します。
法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵慈法師及葛城臣、逍遙夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異于寿国。随華台而開合、沐神井而廖(がんだれでなくやまいだれ)疹。詎舛于落花池而化羽。窺望山岳之嚴山へんに咢、反冀平子之能往。椿樹相病だれに陰而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照。玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊、豈悟洪潅霄庭意歟。実漸七歩。後之君子、幸無蚩咲也。この原文はウィキペディアで「伊予湯岡碑」で検索しますと見ることができます。この文章の前の部分は聖徳太子がこの碑を建てた経緯を記し、惟夫から終わりまでが碑文の内容となっています。従ってもし元の碑が発見された場合の石碑の文字は惟夫からということになります。またこの逸文では、聖徳太子や厩戸皇子ではなく「法王大王」となっています。
 逸文とはどういうものであるかについては、当ブログでは上賀茂神社の祭神の別雷神の誕生に関して『山城国風土記』逸文の内容を紹介しています。そこで説明をしています。そしてこの逸文が伊予国風土記逸文と同様に『釈日本紀』に収められていることから、『釈日本紀』についても説明しています。
 また『釈日本紀』だけでなく『万葉集註釈(まんようしゅうちゅうしゃく)』にも収められています。『万葉集註釈』は鎌倉時代の万葉集の注釈書で、著者は仙覚(せんがく)。全10巻。文永六年(1269)四月二日の成立。『仙覚抄』、『万葉集抄』とも呼ばれます。はじめに『万葉集』の成立事情、『万葉集』の名義、撰者などの考証があり、次に巻一以下順番に難解歌をあげて注を加えています。仙覚の注釈の態度は、文献の引用も豊かであり、諸本を調査した基礎的研究の上に立ち、論証を精確に進めようとしており、注釈した歌数も多く、本文校定の面における成果とともに、万葉研究史上最初のもっとも注意すべき著作と言われています。著者の仙覚(1203~?)は鎌倉時代の万葉学者で、常陸の出身。天台宗の僧で、鎌倉新釈迦堂の権律師(ごんのりっし)。鎌倉新釈迦堂は二代将軍源頼家の娘の鞠子(竹御所)の遺言によって建立され、鞠子はここに葬られたと伝えられています。鞠子の館跡といわれ、妙本寺の祖師堂の北方の高台にあり、現在は墓石だけが残されています。


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