鈴木重家の後日談(4)ー栗原市の鈴木館その1

宮城県栗原市金成大原木(かんなりおおはらぎ)袖山に「大原木館」(別名、鈴木館)があります。金成大原木は元は栗原郡金成町大原木で、平成17年(2005)に合併して栗原市の一部になりました。栗原市教育委員会が平成二十年(2008)五月に建てた案内板には次のように書かれています。鈴木館と喜泉院 大原木館は鈴木館ともいう。源義経の重臣鈴木三郎重家の館だからである。文治五年(一一八九)平泉藤原泰衡が高館の源義経を攻めた時に壮烈な討死を遂げた鈴木三郎は三十歳の若い武将であった。このころ、遠く三河国本城村より二子を連れて夫、三郎のもとに下向していた重家の妻、亀世御前は重家が討死した報をうけると、二十五歳の花と香る若妻の姿から黒髪を断ち切り尼僧となり、その名も鈴光尼と改めて重家館の傍らに尼寺を建立し、生涯夫の冥福を祈ったという。喜泉院の山号を尼我山と称するのは、こうした由緒からであろう。いまでもこの山を尼ヶ森と称し、山頂には高さ一・五メートル、周り十メートルの古塚が残っており、里人はこれを尼僧の墓と敬っている。鈴光尼は大変庭を愛し、紀州熊野山より取り寄せたという路地石二個が、いまでも喜泉院の庭の池畔に残っている。鈴光尼が庭を愛し、泉水をつくり庭石を配したところから喜泉院の名が生まれたといわれている。次に鈴木家系図中の記載に「鈴木高重(鈴木家四十一代)鈴木三河守栗原郡三迫大原木城主天正十八年(一五九〇)八月没落、翌十九年八月十四日桃生郡深谷陣討死年七十二」とある。これは葛西一揆が伊達政宗によって鎮圧された時のことで、このころまでに大原木館が続いていたことがわかる。また南北朝時代の興国二年(一三四一)陸奥守北畠顕信が傾きかけた南朝を興そうと津久毛橋城に陣を布いた。足利方の石塔義房はこの重家館当時釜糠城(鬼柳文嶺)に対陣した。戦は南朝方に利あらずして悲運の涙をのんだ。喜泉院の地を「釜の川」と称するのも釜糠城に関係があろう。このころ、尼寺は戦乱で荒廃していたであろう。大原木地区は鈴木姓が大部分であり、遠くに出て活躍している人にも鈴木姓で祖先を偲ぶため鈴木館を訪れる人が多い。ここに書かれていることは、まず大原木館は鈴木重家が妻である亀世御前と二人の子供と暮らしていたが、その後義経のいる平泉に行き、藤原泰衡に攻められて討死したという知らせを聞いた亀世御前は尼となり、館の傍らに寺を建立して、重家の菩提を弔い生涯を終え、その墓と言われる古塚があって、村人に敬われているということと、さらにおそらくは亀世御前が連れてきた子供がこの館の主となり、戦国時代の天正十八年に四十一代目の当主が葛西一揆において七十二歳で討死にをしたことで滅びたということ。また南北朝時代にこの館が釜糠城と呼ばれ、北朝方の石塔義房がここに陣営を築き、南朝方の北畠顕信と対陣し、南朝方が敗北したということから、この戦いの舞台となった尼寺(喜泉院)は戦乱で荒廃していたであろうということです。さらにこの大原木地区は大部分の家が鈴木姓であり、遠くの土地で暮らしている鈴木姓の人も先祖に所縁の場所として訪れる人が多いということになります。重家の妻として、南三陸町には小森御前の伝承があります。ここ金成大原木では亀世御前が登場しています。どちらもそれぞれの場所で大切にされています。この案内板の内容をもう少し詳しくみてみたいと思います。



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