道後温泉の湯釜


 道後温泉にはかつて温泉の湧出口に使われていた湯釜(ゆかま)が残されています。松山市のサイトにある記事を紹介します。「湯釜1基 石造▪︎湯釜について 愛媛県指定有形文化財(建造物) 指定年月日 昭和29年11月24日指定 所在地及び所有者 松山市道後公園 解説 この湯釜は、道後温泉の浴槽内の湧出口に設置されていたものである。直径166.7cm、高さが157.6cmの円筒形、花崗岩製の湯口である。天平勝宝年間(749年~757年)に作られたと伝えられ、正応元年(1288年)河野通有の依頼により一遍上人が湯釜の宝珠に「南無阿弥陀佛」の6字の名号を彫ったという。享禄4年(1531年)には河野通直が尾道の石工に命じ、胴まわり部に天徳寺の徳応禅師撰文の温泉記を彫らせた。この湯口は、現在の道後温泉の本館ができる明治27年(1894年)まで使われたもので、温泉史上貴重なものである。」とあります。
 この説明を読むと、道後温泉の湧出口に設置されていたという湯釜はかなり大きな物のようです。しかも奈良時代から明治27年まで1150年近く使われていたことからかなり頑丈な造りのようです。湯釜は1基ですから、明治時代までは浴槽が1つ、男女混浴だったのでしょうか。
 この説明にある天平勝宝(てんぴょうしょうほう)という年号ですが、当ブログでもたびたび出てきています。聖武天皇の娘の孝謙天皇の時代です。孝謙天皇は天平感宝(てんぴょうかんぽう)元年7月2日聖武天皇の譲位を受けて即位して改元しました。天平勝宝年間の出来事として最大のものは4年の東大寺大仏の開眼です。また6年には唐から鑑真が渡来しています。7年1月4日に勅命により「年」を「歳」に改めています。ただしこれは次の年号である天平宝字(てんぴょうほうじ)に改元された時に再び「年」に戻されていますから使用期間は短いです。ただその期間中の8歳には聖武上皇が崩御して遺品が正倉院に収められました。当ブログに関係ある天平勝宝年間の出来事としては、かほく市の賀茂神社が金沢市御所町から津幡町に遷座しています(天平勝宝5年)。またこの頃に賀茂社から下鴨神社が分立したと考えられています。
 この湯釜には一遍上人が宝珠に「南無阿弥陀佛」の名号を刻んでいるとあります。一遍上人は熊野権現のお告げにより布教に踏み出す決意を固めた熊野成道で知られる熊野信仰と関係の深い僧侶です。一遍は1239年に伊予国久米郡の豪族河野通広の第2子としてここで生まれています。一遍は布教のため日本各地を訪ねますが、この湯釜の説明にある正応(しょうおう)元年に、厳島神社から瀬戸内海を渡り故郷に戻ります。そして年末に河野氏の氏神である大三島の大山祇神社に参詣して3日間参篭します。年明け早々に再び大山祇神社に参詣し、その後讃岐の善通寺などに参り、6月1日に阿波国で発病し、淡路島を経て、摂津の兵庫津の観音堂で8月23日に生涯を終えます。湯釜に6字の名号を刻んだのは上人の最晩年のことになります。一遍に6字の名号を彫るように依頼した河野通有(かわのみちあり)は一遍の父通広の弟。一遍にとっては叔父です。通有は、鎌倉幕府の御家人で、元寇の際に伊予水軍を率いて活躍し、一時衰えていた河野氏の勢力を盛り返し、河野氏中興の祖と呼ばれる人物です。
 次にこの湯釜に温泉記を彫らせたという人物として河野通直(かわのみちなお)の名前があります。通直は1564~1587。河野氏の最後の当主です。先代の通宣(みちのぶ)に跡継ぎがなかったため跡を継ぎますが、この頃の河野氏は衰退しており、毛利氏の支援を得て自立を保っているという状況でした。豊臣秀吉の四国攻めで小早川隆景に降伏し、命は助かりますが所領は没収されて河野氏は滅亡します。
 次章に続けます。


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