権現とは

先ほどからしつこいほど権現という言葉が出ています。権現(大権現)は熊野の専売特許ではなく山王権現や白山権現などありますが、その中でも有名なのは徳川家康の東照大権現ではないでしょうか。家康は死に臨んでブレーンの僧侶、崇伝(すうでん)と天海(てんかい)に死後、神として祀るよう遺言します。亡くなって、神号を崇伝は大明神(だいみょうじん)、天海は大権現を主張し、論争になります。天海は「明神を名乗った秀吉(豊国大明神)の豊臣家は滅びてしまったではないか。ここは絶対にパワーのある大権現だ!」と言って、その意見が通り東照大権現になります。天海は天台宗の僧侶ですから、神仏習合の権現を推したのだと思います。天海は前半生がよくわからないところから、その正体は明智光秀だとも言われています。権現の「権」は「仮り」、「仮に現れたから権現」。「何が仮に現れたか?」。「仏」。仏教はインドで生まれました。インドから見たら日本は遠い辺土。仏教の究極の目的は衆生済度。人間の悩みを救うこと。キリスト教で言えば、迷える子羊に手を差しのべること。しかし日本は遠いので、神通力を使って神に変身したのが、即ち権現。したがって権現を名乗る神に参ったら同時にその神の本地である仏を拝んだことになります。つまり一粒で二度美味しいって仕掛けです。この考え方が「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」。仏が本地で本地仏。神は垂迹で垂迹神。権現では必ず神とその本地仏がセットになっています。先ほどの東照大権現は祭神は家康。本地仏は薬師如来。薬師如来は医薬の仏。戦国乱世を安定に導いた家康にうってつけかもしれません。天海が本地仏を決めたのかな。しかしお参りする人はそれはどうでもいいことで、「こちらは何という神社てすか?」。「熊野権現です」。それで十分だったのです。江戸時代までは。明治政府は、神仏分離を推し進めます。まだ明治に改元する前の慶応4年(1868)3月28日第一弾として神仏判然令を出します。文字通り神か仏かハッキリさせよ!という命令です。特に権現は神仏がゴッチャになってますから使用禁止。熊野三山でも当然それにしたがって神社の名前を新しく決めて届けました。もちろん祭神の名前も。それまでは熊野権現と名乗っていた神社も同様です。しかしこの判然令から150年、さらに戦後は国の宗教政策も変わりましたから、一粒で二度美味しいという権現様を再評価してもいいのではないでしょうか。熊野の神も権現である以上当然本地仏と垂迹神がセットになっています。それを見ていくことにしましょう。




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