那智ー地主神としてのニシキトベ

JR那智駅は「道の駅なち」となっていて、その2階が日帰り温泉「丹敷(にしき)の湯」になっています。丹敷戸畔に由来します。ニシキトベが地域のシンボルとなっています。新宮から国道42号線を串本に向かうと左手に朱色に塗られた建物があり、「丹敷の湯」と大きく書かれていて目立ちます。
この道の駅から国道を挟んですぐ近くに熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)があります。この神社も「神」と書いて「みわ」と読みます。この神社はもとは「浜の宮王子」と呼ばれ、目の前が海だったことから「渚の宮」とも言いました。那智山に参拝する巡礼者はここで潮垢離をするのが決まりでした。隣接して普陀落渡海で知られる普陀洛山寺があり、神仏習合時代の名残を留めています。この神社の社殿の右側に摂社の丹敷戸畔命の石祠があります。もとは本社に祀られていたそうですが、神武天皇にはばかって境内に祀られたとのことです。「命」となっていますから、神様として扱われています。ここでも地元の人のニシキトベを大切に思う気持ちが伝わってきます。
那智では、神武軍とトベ軍との間に激しい戦いが繰り広げられたという伝承があります。神社のある浜ノ宮から少し新宮よりに、地図に「赤色(あかいろ)の浜」、「赤色海岸」という表示があります。「赤色」は那智勝浦町大字狗子ノ川(くじのかわ)の字名です。ここが「赤色」と呼ばれるのは、地元の伝承によると、神武軍との戦いに敗れたニシキトベが流した血によって、浜の砂が赤く染まったからだと言われています。また狗子ノ川には、ニシキトベの墓石と言われていた大石があり、昭和15年の紀元2600年の奉祝の頃に神武天皇の腰掛け石と言われるようになったそうです。狗子ノ川という地名は、鬮野川とも書かれたそうです。鬮野川は串本町にもあり、漢字が難しい字体なので「くじの川」と書くことが多いようです。トベの墓のある二色よりは潮岬を挟んで東側になりますが、ニシキトベに縁のある土地に「くじのかわ」という珍しい地名があるのは偶然ではないような気がします。
『紀伊続風土記』にニシキトベに関する記載があります。抜粋して紹介します。
巻之七十八牟婁郡那智荘濱ノ宮村から
○濱宮 境内周三百七十間 禁殺生 一社三扉 彦火火出見尊 天照大御神 大山祇尊 末社 三狐神 丹敷戸畔祠 籠所 拝殿礎 村中にあり 那智山の末社なり 祀神寛文記には熊野三所権現とあり 同記一説には錦浦大明神伊豆箱根権現両所権現とありいままた何れか是なるを知らす 又王子社ともいふ 平家物語に維盛入道の事を記して三の御山の参詣事故なう 遂給ひしかは濱ノ宮と申奉る王子の御前より一葉の船に棹さして萬里の蒼海に浮ひ給ふとある 即當社なり古は此地悉社地にして民家もなかりしに後世村居して當社を産土神と稍せり 其後故ありて丹敷戸畔祠を産土神とす事は下文錦浦の條に辨す
○錦浦
村の南海濱十二三里許の地をいふ 潮崎荘二色長島郷丹敷皆海湾なり 當浦も亦湾をなして共に錦の名あるか 日本紀に載する所丹敷浦を此地にせんとて此濱を赤色といふより中世好事の者の名つけたるならん 寛文記にも此名見えたれは古くより牽強せしならん 丹敷戸畔祠を王子社の境内に建てるも皆後の牽強なり 丹敷戸畔を誅せるは此地にあらす 詳に曽禰荘論に見ゆ
紀伊続風土記巻之九十牟婁郡第二十二曽根荘から
當荘より以東の諸荘は上世丹敷戸畔の領せし地にして所謂荒坂の津といふ 荒坂は當荘二木島より曽根浦に越ゆる今の曽根次郎曽根太郎といふ峻坂をいふらむ 丹敷に今長島郷錦浦あり 丹敷はその邊の大名にして丹敷戸畔 ○神武帝の御軍を防んとて此地に來りて此あら坂の邊にて帝の為に誅せられし處成るへし
ここに書いてあることは、丹敷戸畔が神武軍と戦ったのは那智ではなく、二木島や大紀町の錦であるということです。この説についてはすでに紹介していますが、丹敷浦がどこかということの私の考えを述べてみたいと思います。

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