国造とはー「国造本紀」の成立について

 前章で、「国造本紀」や記紀などに書かれている国造の系譜について、その基になる原資料の存在が考えられると書きました。これは「国造本紀」の成立と大きく関係してきます。国立歴史民俗博物館の研究報告では、次のように書かれています。
 本稿は、そのうちの系譜部分の史料性を検討し、それを通して「国造本紀」の成立過程を考察したものである。「国造本紀」の国造系譜が単に『古事記』『日本書紀』などの古文献にみえる国造系譜の寄せ集めではないこと、また「先代旧事本紀」の編者による創作でもないことは、今日一般的に認められている。本稿ではまず「国造本紀」の国造系譜と『古事記』『日本書紀』のそれぞれ比較検討することによって、この点を改めて確認した。次いで「国造本紀」の国造系譜の内容•表現等に検討を加え、それは、基本的には各国造が実際に称えてきたところの系譜を伝えたものであること。また、その系譜が形成された時期は6世紀中頃から後半にかけての時期と考えられることを述べた。そしてそのことから、「国造本紀」の成立過程については大宝2年(702)に国造氏が決定された際に、各国造氏からそれぞれ称えてきたところの系譜を記したものが提出され、それに基づいて「国造記」が作成され、さらにその「国造記」を原資料として「国造本紀」の国造系譜が書かれたと考えられるとした。
 研究報告では、『先代旧事本紀』の成立と、「国造本紀」の独自性について次のように書かれています。
 「国造本紀」は『先代旧事本紀』の1巻であり、その最後の巻10に収められている。『先代旧事本紀こ』については、聖徳太子•蘇我馬子らの撰によるとの序文が付されているものの、それは後世の仮託であり、実際には、平安時代の前期から中期にかけてのある時期に、物部氏系の人物によって、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などの記事を寄せ集めて編纂されたものと考えられている。ただし、同書には独自の資料に基づいたとみられる部分も含まれており、とくに「国造本紀」に関しては、依拠すべき原資料の存在したことが指摘されている。これらの点については、今日ほぼ異論のないところと思われるが、「国造本紀」およびその原資料の史料性の問題点や、その成立過程については、いまなお共通した理解が得られていない。
 『古語拾遺(こごしゅうい)』は斎部広成(いんべのひろなり、生没年不詳)が平城天皇の大同2年(807)に編纂したとされ全1巻。斎部氏は忌部氏ともいい、中臣氏と並んで朝廷において祭祀を掌る官職に任じられてきましたが、中臣氏の流れを汲む藤原氏が勢力を持つに従い、中臣氏が祭祀の官職を独占するようになりました。伊勢神宮の奉幣使を巡り、大同元年(806)に中臣氏と斎部氏の双方から自らの氏族をそれに任ずべしとの訴えが提起されました。中臣氏の主張は、忌部氏は幣帛を作るのが本分で、祝詞を読み上げることはできないということで、一方の忌部氏の主張は、幣帛や祈祷は忌部の職掌であり、従って忌部氏を幣帛使とし、中臣氏は祓使の役をさせるようにということでした。この訴えについて朝廷は、『日本書紀』に基づき祈祷は中臣氏と忌部氏の双方がともに関与すること、定期の祭礼は中臣氏と忌部氏がそれぞれ役割を分担し、臨時の祭礼では幣帛使に中臣氏と忌部氏の両氏で半数ずつとなるように充てるということでした。結果として忌部氏の主張が認められています。この論争の過程で平城天皇の質問に答えることを目的にして書かれたのが『古語拾遺』だと言われています。広成はこの時81歳だと伝えられています。彼はこの功績により大同3年(808)に従五位下に叙せられています。この『古語拾遺』の書かれた時期がかほく市の賀茂神社が平城天皇の祈願所となった時期に当たります。

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