伊可古夜日女の伝承ー丹波市市島の鴨神社の2

『氷上郡志』に書かれています市島の鴨神社についてですが、文章が難解で内容も分かりにくいです。内容を整理してみます。鴨庄で賀茂御祖神に縁のある神社を探すと、梶原にある鴨神社が該当します。鴨神社のある丹波市市島町梶原は明治維新前には鴨庄村に属し、『郡志』が編纂された当時は吉見村となっていました。神社のたたずまいからも古社であることが分かります。また鴨庄という地名からも賀茂の神との関連があります。この神社の境内に古墳があり、イカゴ塚と呼ばれています。この古墳を発掘したところ土器やその他の副葬品が発見されました。そういうことからこの古墳は伊賀古夜比売の墓で、後にこの古墳に比売の神霊を祀り神野神社と称したと思われます。今の神野神社(丹波市氷上町御油に鎮座)は別雷神の分神を祀り、昔は円通寺の境内にありましたが、円通寺の創立の時に賀茂社の禰宜が社地を寄進し、御油に移転しました。今の神野神社と言うのはこの賀茂神社で、別雷神を主祭神に、後に嵯峨天皇を合祀しました。梶原にある鴨神社が本来の神野神社であり、伊賀古夜比売を祀った神社である。ということになります。ここで述べているのは、式内社の丹波国氷上郡神野神社(小社、一座)は氷上の神野神社ではなく、ここ市島の鴨神社であるということ。それは境内にイカゴ塚と呼ばれる古墳があり、この古墳は伊可古夜日女の墓であり、そこに日女の神霊が祀られたことが神社の起源であるということです。
神社境内の説明板には次のように書かれています。
鴨神社の由緒 御祭神賀茂別雷命 ●創建は賀茂縣主真簑(かものあがたぬしまみの)にかかるとの口伝があるが不詳である。応永28年(1421)正月吉祥日「再造鴨大明神社殿」の棟札があり、禰宜賀茂縣主経良の名が記されている。 ●天正7(1579)年明智光秀の丹波攻めにより兵火にかかり、社殿ほか一切を焼失した。現在の本殿は延宝8(1680)年に、拝殿は文化8(1811)年に再建されたものと伝えている。 ●江戸時代は鴨郷(加茂乃庄)九か村の総社として地域住民の尊崇を集め、四社(鴨神社と貴船神社、八幡神社、春日神社)を合祀したことから当時は鴨四座大明神と称し、氏子640戸を雍したという。時の領主旗本川勝氏も崇敬の念篤く、神社の繁栄維持に勤めた。 ●大正13年5月に郷社に列せられる。境内の面積は約2400坪。本殿の両脇にニ社と一社を配し、祝詞殿に続く東西十間南北ニ間の広さの拝殿、それを三方の塀で囲んだ社殿は壮観である。 ●戦後に宗教法人鴨神社となる。一の鳥居(大正3年3月再建、柏原中井権次彫刻)の脇に御神木の天然記念物•大公孫樹(推定樹齢数百年、高さ20米、幹周6米)がある。 【参考】京都•上賀茂神社の御祭神も当社と同じく賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)で、神社の正式な呼称は賀茂別雷神社という。同下鴨神社は賀茂建角身命(かもたけつむみのみこと)と、娘の玉依媛(比売)命(たまよりひめのみこと)が御祭神である。玉依媛の子が賀茂別雷命であることから賀茂御祖神社が正式名称。賀茂建角身命は、丹波国の伊賀古夜比売(いかこやひめ)を妻に迎え、玉依日子命(たまよりひこのみこと)と玉依媛命の二人をもうけ、兄の玉依日子命は後に父のあとを継いで賀茂縣主となった。
次章に続けます。



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