伊予の国造から国造とは何かを考えるー愛媛県史をもとに

 伊余国造は、「国造本紀」に「志賀高穴穂朝御代。印旛国造同祖敷桁波命児速後上命。定賜国造」とあります。敷桁波命(しきたなはのみこと)は敷桁彦命(しきたなひこのみこと)とも言い、この人は印旛国造(印波国造)と同祖となっています。また『古事記』によれば、神八井耳命が伊余国造の祖とあります。この『古事記』の記事に従えば、伊余国造も印波国造もともに神武天皇の皇子である神八井耳命を共通の祖先としていることから、神武天皇裔の国造ということになります。また仲国造は伊予国造同祖となっていますから、仲国造も祖先が神八井耳命ということになります。印波国造は祖先の名前として神八井耳命の名前を挙げています。仲国造は神八井耳命の名前は挙げていませんが、伊余国造が『古事記』で神八井耳命が祖先であるとありますから、この三人の国造は神八井耳命が共通の祖先であることがわかります。
 伊余国造は、敷桁波命の子供の速後上命(はやのちあがりのみこと)が成務天皇の時代に伊余国造に定められました。伊余国造が支配したのは伊余国と呼ばれた地域で、律令制下の伊予国伊予郡、現在の愛媛県伊予郡松前町(まさきちょう)、伊予市に相当する場所になります。8世紀初頭に確立した律令国家が松山平野に位置した「伊余国造」の名前を取って国名を「伊予国」としました。伊予国には国造が伊余国造を含めて5氏ありました。比較的狭い地域に国造が5氏いたということから、「国造とは何か?」を考えるのにはいい材料になるといえます。それで伊余国造だけでなく伊予の国造について下記の資料を基に考えてみます。
 愛媛県生涯学習センターのサイト、データベース『えひめの記憶』に『愛媛県史古代Ⅱ▪︎中世』(昭和59年3月31日発行)が掲載されていますので紹介します。
一伊予国造 国造制の成立 大和朝廷の最も古い地方組織は、県であり、これは一般に国造制に先行するものと考えられている。全国的な県の分布をみると、大和▪︎河内▪︎吉備•筑紫など、畿内や西国地方に集中しており、そこから伊予国にも県が設置された可能性も考えられる。しかし、伊予国の県についての史料は皆無であり、現在は、わずかに地名からその存在の可能性を推測するにとどまっている。文献からみる限り、伊予国には県
は存在しなかったとするのが妥当であろう。したがって、大和朝廷が伊予国を支配した最初の行政制度は国造制であったと考えられる。この国造制は大和朝廷の地方支配の制度であり、国家成立の重要な指標ともされている。しかし、その実態や内容については案外不明の事が多く、それは伊予の国造についても同様である。伊予の国造についての基本的な史料は『先代旧事本紀』所収の『国造本紀』である。これは、一〇世紀初頭に国造家の家譜類を材料として編纂されたものであるが、内容的に矛盾もあり、また大宝令以後の国名や郡名と多く一致することから、その信頼性に疑問がもたれている。しかし、一方で、国造名と令制下の国名や郡名とが相違するものもあり、また、令制前の国名などのみえることから、六世紀~七世紀にかけての国造の存在を反映したものとみなす見解もある。そして、『国造本紀』には何らかの原史料があったと思われ、大化前代の状況をある程度反映しているといえよう。ともあれ、同書にみえる国造の数は一三五にのぼり、その分布はほぼ全国に及んでいる。そして、その成立した時期は成務▪︎景行期に集中しており、さらに、一一次にわたる国造の拡大が記されている。この成立期についてはそのまま認めることはできないとしても、この記事によって国造制が数時期にわたって編成▪︎拡大されたことは確かであったと考えられる。


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