御生神事の起源(5)ー源氏物語に登場その1

『源氏物語』第33帖「藤裏葉(ふじのうらば)」、第2章第1段の「紫の上、賀茂の御阿礼に参詣」の本文です。「かくて、六条院の御いそぎは、二十余日のほどなりけり。たいのうへ(対の上)、御阿礼に詣うでたまふとて、例の御方々いざなひきこえたまへど、なかなか、さしも引き続きて心やましきを思して、誰も誰もとまりたまひて、ごとことしきほどにもあらず、御車二十ばかりして、御前なども、くだくだしき人数多くもあらず、ことそぎたるしも、けはいことなり」とあります。文中の対の上は光源氏の正妻の紫の上のことです。光源氏の愛人の明石の君の娘の六条院への入内は四月二十日過ぎと決まったので、紫の上は姫君のために上賀茂神社の御阿礼に参詣しようといつものように花散里(はなちるさと)や明石の君を誘ったが断られたので、少人数で出かけました。というのがこの段のあらましです。「藤裏葉」は『源氏物語』54帖の33番目で、光源氏の絶頂期を描いています。
紫の上が参詣したのは上賀茂神社の神事です。この「御阿礼」についてネットの『下鴨神社の御生神事〈御蔭山の磐座祭祀〉』では、『源氏物語』の二つの注釈書、四辻善成の『河海抄(かかいしょう)』と一条兼良の『花鳥余情(かちょうよじょう)』を挙げて説明しています。どちらも國學院大學出版部が1908年に刊行した室松岩雄編『国文注釈全書』に収められています。
『河海抄』は四辻善成(よしつつじよしなり)が書いた全20巻20冊から成る源氏物語の注釈書で、もとは貞治年間(1362~1367)の初め頃に室町幕府二代将軍足利義詮の命により宮中での源氏物語の講義の内容をまとめて記したものを献上したものですが、善成はその後も長年に亘って書き続けています。書名は『史記李斯列伝』の「河海は細流を厭わず、故に其の深きことを成す」から採ったとされています。四辻家は順徳天皇の第6皇子善統(よしむね)親王が創立した宮家で、善成はその孫です。善成は臣籍降下して四辻を名乗りました。1326~1402年の在世。官位は従一位左大臣。
『花鳥余情(かちょうよせい、かちょうよじょう)』は一条兼良(いちじょうかねよし、かねら)による源氏物語の注釈書。兼良は源氏物語について多くの著作がありますが、本書は兼良の源氏物語に関する著作の中で最も体系的とされます。本書は文明4年(1472)兼良が71歳のときに成立したとされます。応仁元年(1467)の応仁の乱の勃発後間もなく一条室町にあった邸宅と書庫の「桃花坊文庫」が焼失したため、息子の尋尊(じんそん)を頼って奈良に赴き、応仁の乱が収まるまでの約10年間奈良に滞在し、その間に本書を執筆しています。兼良自身も書いていますが、本書は常に『河海抄』を意識して書かれています。一条兼良(1402~1481)は一条家8代目当主。従一位摂政、関白、太政大臣。
尋尊(1430~1508)は興福寺180世別当で大乗院20代門跡。大乗院は一乗院と並ぶ興福寺の有力な塔頭でした。明治の廃仏毀釈で廃寺になりましたが、跡地の一部は「旧大乗院庭園」として国の名勝に指定されて公開されています。また尋尊らが書いた日記『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』は国立公文書館の所蔵で重要文化財に指定されています。中でも尋尊が書いた部分は応仁の乱前後の根本史料とされています。
それでは上記二つの資料の「御阿礼」の注釈をみてみましょう。


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