伊佐爾波神社ー仲哀天皇と神功皇后の行宮跡に創建

 伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)の現在の鎮座地は松山市桜谷町(さくらだにちょう)173番地。地名に道後が入っていませんが、場所は道後温泉近くの道後山の東南端になります。
 祭神は神社のサイトでは、主祭神が神功皇后、応神天皇、仲哀天皇、三柱姫大神(みはしらのひめおおかみ)とあり、ウィキペディアでは、礜田別尊(ほんだわけ、応神天皇)、足仲彦尊(たらしなかつひこ、仲哀天皇)、氣長足姫尊(おきながたらしひめ、神功皇后)、三柱姫大神。配祀神として東照大神(東照大権現、徳川家康)を祀っているとあります。三柱姫大神は、福岡県宗像市にある宗像大社の祭神の宗像三女神(むなかたさんじょしん)で、市杵島姫尊(いちきしまひめ)、湍津姫尊(たぎつひめ)、田心姫命(たぎりひめ)の三柱。
 創建についての詳細はわからないそうですが、清和天皇(在位858~876)の時代に、奈良の大安寺の僧行教が伊予の国司に請い、道後に八社八幡宮を建立した中の一社で、神功皇后▪︎仲哀天皇が道後に御来湯の際の行宮跡に建てられたと言われています。
 『延喜式神名帳』には、「伊予国温泉郡伊佐尓波神社」と記載されている式内社(小社)で、近代社格は県社。神紋は「左三つ巴」。
 当社はかつて「湯月八幡宮」とも「道後八幡」とも呼ばれました。八幡神とされる応神天皇が祀られていることからです。神仏習合時代は宝厳寺と石手寺が別当寺であったとされます。
 当初は現在の道後公園の麓に鎮座していたと推定され、この場所は「伊佐爾波岡」と呼ばれていました。建武年間(14世紀前半)頃、伊予国守護の河野氏による湯築城(ゆづきじょう)築城に際して今の地に遷され、湯築城の守護神として河野氏から崇敬されたほか、道後七郡(野間、風速、和気、温泉、久米、伊予、浮穴)の総守護とされました。その後、加藤嘉明が松山城の固めとして松山八社八幡宮を定めたとき、当社は「湯月八幡宮」として一番社とされ、武運長久の祈願所となり、久米郡井合の土地百石を神社の社領として寄進されました。
 寛文2年(1661)、弓の名手と言われた三代目藩主松平定長は、将軍家より江戸城内において弓の競射を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をし、1664年(寛文4)6月、定長は将軍家の御前で矢を無事に的に的中させることができ、祈願成就の御礼としてただちに社殿の造替に着手し、大工697人、延べ人数69017人を要し、寛文7年(1667)5月15日に竣工し、松平家より代参として家老竹内氏が参拝し遷宮祭が行われました。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて現存3例のみの貴重な建物です。
 当社は明治4年(1871)県社に列し、昭和31年(1956)6月に本殿が国の重要文化財に指定され、昭和42年(1967)6月に全体が追加指定されました。昭和45年(1970)から3年間にわたり本格的な復元解体修理が行われ、平成12年(2000)から2年にわたり、総工費約2億6千万円をかけて修復工事を行いました。江戸時代の造替工事については、どれくらいの費用がかかったかについて神社の公式サイトには書かれていませんが、かなりの金額を要したと思います。定長は将軍の目の前で見事に矢を命中させたのがよほど嬉しかったのだと思います。神社のサイトにはそれが詳しく書かれていますから、次章に紹介します。


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