東紀州の熊野信仰(5)ー烏止野神社

貴祢谷社の近くにある鵜殿の氏神です。地名は鵜殿ですが、神社の名前は「烏止野」。「烏(八咫烏)が止まった野原」。なんか思わせ振りな名前です。しかも読み方が、地名は「うどの」ですが神社の読み方は三重県神社庁のサイトでは「うとの」です。なにやら謎めいた神社です。
私は「烏が止まった野原」かと思って三重県立熊野古道センターに問い合わせました。その回答です。「烏止野のウト(烏止)は洞窟や濁流を示す語といわれ、海と熊野川とがぶつかる河口部の地勢の状況を形容して、そのロケーションにあたる旧当村がそう名付けられたと言われています」。とのことです。八咫烏が止まった野原というのは考え過ぎのようです。
烏止野神社は、伝承では慶長年間(1596~1615)頃の創立といわれ、明治40(1907)年に境内社の秋葉(あきば)神社(伊弉諾尊、伊弉冉尊)、若宮神社(天照皇大神)、稲荷神社(倉稲魂命)の三社を合祀し、その後に、蛭子(えびす)神社(蛭子命)を合祀、翌年には事比羅(ことひら)神社(金山彦命)を合祀しています。神社庁のサイトでは、祭神はこれら合祀した神社の祭神のほかに、大己貴命とあります。おそらく大己貴命を祀っていた神社にまず境内社が合祀され、さらに二社が合祀されたということです。鎮座地は移動していません。境内社の秋葉神社の祭神ですが、ここではイザナギ、イザナミとなっていますが、一般的には火の神カグツチです。火伏せの神として信仰されています。若宮の祭神はアマテラスですから、熊野権現の五所王子の若宮です。
烏止野神社には裏山に元宮の「大上神社」があります。境内から階段を上がって行くと磐座があり、元宮らしいたたずまいです。神社が立てた案内板があり、それによると「『紀伊国名所図会』に、南紀神社録に云う、祀神は熊野連(神々の子孫といわれる一統)の祖神饒速日命(にきはやひのみこと)なりと。との記載があり、中世鵜殿庄司(荘園の管理を命ぜられた人)であった鵜殿氏が居城近くに氏神として祀ったものと考えられている。村人は烏止野神社の元宮として、古い形態のつつましやかな祭祀を続けてきた」とあります。ここには神社の祭神は熊野連(くまののむらじ)の祖神のニギハヤヒだとしています。熊野国造の始祖はニギハヤヒということです。これについては改めて考えることにします。謎多き神、ニギハヤヒ。とても興味深いです。それと案内板には「古い形態のつつましやかな祭祀を続けてきた」とありますが、どんな祭祀を続けていたのでしょうか。なんとなく気になるフレーズです。
烏止野神社を取り囲む宮の森は2000平方メートルあり、約50科、70種の草樹が自生する暖帯林で、そこにはオガタマノキを食草とする南方系の蝶、ミカドアゲハが繁殖することから、森とともに町の指定文化財として保存されています。
烏止野神社の所在地は紀宝町鵜殿104。新宮駅からも鵜殿駅からも徒歩20分くらいです。
この神社の氏子は、速玉大社の御船祭で諸手船に乗って神船を先導します。これについては「御船祭の諸手船」で紹介しています。
烏止野神社から国道42号線にでて北上すると「加持鼻(かじはな)王子跡」があります。伊勢路にあった王子社です。国道に紀宝町教育委員会が立てた案内板があり、それによると「中辺路ルートにかぎらず、伊勢路の王子社もいくつか知られるが、加持鼻王子は文明5年(1473)の『熊野九十九王子社記』にみえる『熊野年代記』によると、徳治元年(1306)阿須賀の渡しを鳴川(なるかわ、成川)に替え、道を直したという。鵜殿付近の熊野詣ルートは、古くは井田から加持鼻王子を経て、鵜殿村の海岸線を通り、貴祢ヶ谷社の下から阿須賀の渡しを通って新宮に入った。後に上野道を経て、成川に至るルートに変更されたのであろう。近世には紀州藩主徳川重倫(しげのり、第8代藩主)の参拝が知られるが、津波などでくずれ、現在は300m北の上野口土手に小祠として祀られている」とあります。ここには「加持ヶ鼻岩」があり目印になります。
現在の王子社はここから北の井田上野口のJRガード近くに「梶鼻王子」として小祠で祀られています。境内には浜石が敷き詰められています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?