伊予湯岡碑ー恵慈について


 聖徳太子と一緒に伊予湯を訪れた人物として二人登場します。まず高句麗僧の恵慈から説明します。
 恵慈(えじ)は、生まれた年は不明ですが、亡くなったのは聖徳太子が亡くなった翌年、日本でいうと推古天皇31年(623)です。慧慈とも書かれます。飛鳥時代に高句麗から渡来し、三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)に通じ、聖徳太子の仏教の師となり、飛鳥時代に我が国の仏教界で活躍し、仏教を日本に広め、推古天皇4年(596)、この年は聖徳太子に同行して伊予湯を訪れた年ですが、この年に法興寺(蘇我善徳が寺司、現在の飛鳥寺安居院)が完成すると、百済の僧の慧聡と住し、ともに三宝の棟梁と称されました。
 三論宗は、インドの龍樹(りゅうじゅ、熊野十二所権現の聖宮の祭神瓊瓊杵尊の本地仏は龍樹菩薩です)の『中論』『十二門論』、弟子の提婆(だいば)の『百論』を合わせた三論に依拠しており、空を唱えることから空宗ともいわれます。成実宗は、『成実論』の研究をする論宗。論宗とは経典よりも、経典を基に展開される議論を研究することを主眼とするものです。成実宗は三論宗に付随した立場です。三論宗も成実宗も南都六宗の一つです。他に法相宗(ほっそうしゅう)、俱舎宗(くしゃしゅう)、華厳宗(けごんしゅう)、律宗(りっしゅう)の4宗があり、あわせて6宗になります。南都六宗は奈良時代に平城京を中心に栄えた日本仏教の6つの宗派の総称。奈良時代には南都六宗と呼ばれていたわけではなく、平安時代以降、平安京を中心に栄えた「平安二宗(天台宗、真言宗)」に対する呼び名として使われるようになります。南都六宗のうち現存するのは、興福寺や薬師寺を本山とする法相宗、東大寺を本山とする華厳宗、唐招提寺を本山とする律宗です。 
 恵慈は推古天皇23年(615)に帰国します。その際に聖徳太子が著した、『法華経(ほけきょう、ほっけきょう)』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『唯摩経(ゆいまきょう、ゆいまぎょう)』の注釈書『三教義疏(さんぎょうぎしょ)』を携えて出国します。そして『三教義疏』を高句麗で広めました。推古天皇30年(622)2月22日に聖徳太子が没したという訃報を聞いて大いに悲しみ、来年の太子の命日に自らも死を迎えるとの誓願を発し、誓願通りに亡くなりました。高句麗の人たちは恵慈もまた聖なりと評したとされています。 
 伊予湯岡碑の説明で、聖徳太子を厩戸皇子と書いています。聖徳太子は『日本書紀』推古天皇紀に「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」と書かれています。聖徳太子という名前の初見は『懐風藻(かいふうそう)』です。
『懐風藻』は現存する我が国最古の日本漢詩集。序文によれば天平勝宝3年の成立です。天平勝宝3年は孝謙天皇の751年。


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