水死した二人の兄を祀る神社

『日本書紀』では、荒坂津に上陸する前に神武は海上で大時化(しけ)に遭い、二人の兄のイナヒとミケイリヌは海に身を投げて亡くなります。このエピソードは『古事記』にはありません。ミケイリヌに関しては、神武の一行とはぐれてしまい、故郷の九州高千穂に戻り、そこで悪神を退治したという伝承があります。しかし二木島では二人の死体が見つかったという生々しい伝承が残っています。
見つかった二人の亡き骸は地元の人によって手厚く葬られて神社に祀られます。イナヒを祀るのが室古(むろこ)神社、ミケイリヌを祀るのが阿古師(あこし)神社で、二木島湾を挟んだ東の岬に阿古師神社、西に室古神社があります。
室古神社は熊野市二木島(にぎしま)67に鎮座。祭神は三重県神社庁では稲飯命、底筒男(ソコツツノオ)、稲倉魂命。熊野市教育委員会の建てた案内には、豊玉姫命、熊野大神、稲飯命となっています。こちらのほうが合祀前の古くからの祭神の可能性があります。JR二木島駅下車4km。神社庁の由緒に、口承によると、神武天皇東征の折、この紀伊の海上を航行の際、暴風雨の難に遇って船団は漂流、天皇の御兄稲飯命、並びに三毛入野命は入水して薨御された。風浪治まって後土民が両命を発見、帰港して二所に奉葬し、うち稲飯命の御陵を尊崇して産土神として祀ったのが当社であり、また三毛入野命を尊敬して祀ったのが阿古師神社となり、それが両社の創始と伝える。爾後、その当時の情景を模して、毎年5月5日及び11月3日の祭典を斎行。以上の如き由来より、両社の例祭等の祭典は同日、同様に行われ、両者密接に関連を有する。尚、当社の社名は、古来当地を牟婁崎と称し、それに依拠したと考えられる。明治39年12月に神饌幣帛料供進社、翌年12月5日に境内社の底筒男社を合祀する許可を得、続いて大字二木島鎮座の稲荷神社を合祀する許可を取り、明治41年4月15日に合祀を執行した。とあります。
阿古師神社は前章でも書いていますが、国道311号線から楯ヶ崎に行く遊歩道の途中にあり、江戸時代に造られた石畳の参道がありますが、船で参る人のために海に面して鳥居があります。甫母町(ほぼちょう)609に鎮座。祭神は三毛入野命、天照皇大神、大山祇命、蛭子命、稲倉魂命。JR二木島駅下車6km。由緒は室古神社と前半は同じですが、三毛入野命の御陵を尊崇して祀ったのが当社となったとあり、当社の社名は、昔、この付近を英虞崎(あござき)と称していたことに依拠して付けられたとしています。どちらも鎮座している岬の名前が神社名の由来ということです。阿古師神社も明治41年4月15日、村内各小祠を合祀して現在に至っています。こちらにも教育委員会の案内板があり、それによると、熊野市指定文化財史跡 阿古師神社 所在甫母町607番地 指定昭和44年7月7日  二木島湾を抱く東の岬にあり、対して西の岬に室古神社がある。祭神は豊玉姫命 伊勢大神 三毛入野命の説がある 「日本書紀」持統天皇六年(692)阿胡の行宮において紀伊國牟婁郡の阿古志海部阿瀬麻呂の兄弟が鮮魚を献上したとあるのは、この神社である。ここの祭りは古代を最も厳格に伝承しており阿古師、室古神社にちなむ関船早漕ぎ競漕(二木島祭)は往年の熊野水軍や捕鯨の勢子船の早漕ぎを彷彿させる。とあります。
二木島祭は、荒坂祭とも言われ、毎年11月3日に行われ室古神社と阿古師神社から各一隻の関船が出て競漕します。船は八梃櫓で、一梃の櫓に4人、総勢40人が歓声を上げ、太鼓の早打ちにのって、二木島湾の両側にある室古神社と阿古師神社の間を猛スピードで競漕します。祭は古い当屋制を伝えており、いろいろな神役があり、特に当人は次回の祭までに常にスズキ(まが玉)を首より離さず散髪もせず、ヒゲぼうぼうとして、寒中にあっても朝夕潮垢離をとり、厳重な潔斎を行うという厳しいものだそうです。まさに両神社に対する尊敬の思いが表れています。そういうお祭でしたが、平成22年(2010)11
月3日を最後に休止となりました。いつの日か復活することを願っています。
教育委員会の案内板に、室古神社の祭神に熊野大神、阿古師神社の祭神に伊勢大神とあります。室古神社のある牟婁崎は紀伊国、阿古師神社のある英虞崎は志摩国に属していたということによるものです。昔は二木島湾が国境だったということです。
阿古師神社の番地ですが、神社庁では609、熊野市教育委員会の案内板には607とあります。私の打ち間違いではありません。また神社の名前ですが、神社庁では室子神社、阿子師神社となっています。
もう1つ注目されるのは、持統天皇がここに滞在したということが『日本書紀』にあるということです。
二木島よりもまだ北に荒坂津の伝承地があります。大紀町錦です。






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