金津荘と賀茂神社ー賀茂神社の概史の5

 末森城の戦いは、天正12年(1584)9月9日に能登国の末森城で行われた攻城戦です。末森の合戦とも言います。この年、羽柴秀吉と織田信長の次男の信雄(のぶかつ、のぶお)•徳川家康連合軍が小牧•長久手で対峙しました。越中国の佐々成政は当初は秀吉の出陣要請に応じましたが、7月になるとにわかに織田•徳川連合軍に呼応します。これは羽柴軍が苦戦しているとの情報を得たためと思われます。成政は8月28日に前田利家の朝日山城(金沢市加賀朝日町)を急襲しますが、利家の家臣により撃退されます。9月9日成政は利家の領国である加賀国と能登国の分断を図るために宝達山を越えて坪山砦に布陣し、末森城を包囲します。9月10日戦闘が始まると末森城側は籠城戦を展開しますが、次第に成政軍が有力となり落城寸前に追い詰められました。金沢城にいた利家は急報に接し、2500人の兵を率いて出陣します。成政軍の手薄な海岸路を通って進軍し、9月11日の明け方、成政軍の背後から攻撃して成政軍を破ります。それで成政軍は越中へと敗走しますが、彼らは利家軍の伏兵に襲撃されることを恐れ、賀茂神社の杜に火を放ち、そのために神社は焼けてしまいました。かろうじて助かった御神体を神明社の洞に避難させたということになります。賀茂神社にとってはとんだ災難に見舞われましたが、この戦いの結果、成政は越中国の守備を固めて守勢に転じ、一方の利家は領国の防衛に成功し、後に秀吉と協力して成政に対して攻勢を強めていきます。利家は天正9年(1581)能登一国を与えられ、七尾城を拠点にします。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦で柴田勝家が秀吉に敗北した後、秀吉に従った利家は本拠地を金沢城に移しました。
 敗走する佐々成政軍によって焼かれた賀茂神社は、ようやく江戸時代に入り、世の中が平和になった万治元年(1658)に本殿•拝殿が再建されて復興します。
 正徳年間(1711~1716)に藩主前田綱紀公によって境内地として一町二反十三歩が寄進されたとあります。正徳は宝永の次、徳川吉宗の享保の改革で知られる享保の前の年号で、中御門天皇、将軍は徳川家宣、家継です。前田綱紀(まえだつなのり)は、加賀藩の第4代藩主。加賀前田家では第5代。寛永20年(1643)に江戸辰口の藩邸で前田光高(みつたか)の長男として誕生します。母は水戸藩主徳川頼房の娘で3代将軍徳川家光の養女となった大姫。父の光高は、第2代藩主利常の長男。したがって綱紀は利家の曾孫になります。嫡男誕生の知らせを聞いた光高は直後の参勤で江戸までの120里を6泊7日で通過したというスピード記録が残っています。息子の顔を早く見たかったのでしょうね。その光高は正保2年(1645)4月5日に大老酒井忠勝を招いた茶会で突然倒れて急死します。享年31歳。父が亡くなったため、綱紀は3歳で家督を継ぎます。そのため、祖父の利常が後見となります。綱紀は名君として知られていますが、それは利常の教育によるところが大きいと言えます。綱紀は自家だけでなく古文書の保存にも意を注ぎ、その一例として東寺百合文書の保存に対する支援が知られています。元禄2年(1689)には徳川綱吉から御三家に準じる待遇を与えられています。 
 賀茂神社は明治5年(1872)郷社に、明治14年(1881)には県社に昇格しています。平成10年(1998)には現在の社殿が新築され、万治元年に建てられた旧本殿が現在も境内に祀られています。平成10年に社殿が新築されたことからも、今も氏子の方々の篤い信仰に支えられている神社であることがわかります。
 
 

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