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短歌の「私性」について考えてみた

 短歌は文芸作品の一ジャンルであるため、その制作構造は作主が述主(ナレーター・視点人物)に語らせ、主体が行動したり、感想を述べたり、感情を表現したりなどするという表現がなされ、それを享受者が鑑賞するという形を取る。基本的には作主と述主は同一ではなく、述主と主体も異なると考えるのが一般の理論である。しかし、作主の個人的体験を素材として書かれることが多い短歌は、作主が述主であり、同時に主体でもあると捉える方がよいのではないかという考え方が生じる。短歌の「私性」の問題である。この論考では短歌を鑑賞および創作するにあたり、この問題をどう考えたらよいのか、実例を挙げながら整理する試みをしてみたい。

   金(こん)色(じき)のちひさき鳥のかたちして銀杏(いてふ)ちるなり夕日         の岡に

 言わずと知れた与謝野晶子作、『恋衣』(山川登美子増田雅子与謝野晶子合著 本郷書院 明治三八年一月)所収の歌である。銀杏の散る夕暮れの情景を捉えて美しい。作主与謝野晶子が見た情景を詠んだものであろう。作主は与謝野晶子であるが、述主は特定される必要はなく、主体は「銀杏」、植物である。さらに、作主が誰であるか、場所がどこであるかを知らなくても鑑賞に支障はない。無名性の歌の傑作と言ってよいだろう。ただ、高校の教科書にも掲載されていたりして、あまりにも有名な短歌であるため、作主は与謝野晶子だと世間では知られている。述主はあれどもなきがごとし。ただし、夕暮れの岡に銀杏の散る様子を見ている視点の表現である。この歌に私性は感じられない。これは与謝野晶子の短歌の中では希少な部類に入るのではないかと思われる。このように、芸術表現としてはアノニマスな、作品のみで鑑賞に耐えうる作品が優れているとされる傾向が強い。では、私性とは作品にどのように表れるのであろうか。

   海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家

 これも与謝野晶子、前掲『恋衣』所収の有名な歌である。晶子は大阪府堺市の商家に生まれたと聞く。生家は海の近くでもあったのであろう。潮騒を聞きながら何不自由なく成長した晶子の様子が偲ばれる歌である。作主が述主であり、同時に主体でもある歌の例である。作品には晶子の私性が存分に発揮されていよう。素材として実家を描き作品として結実している。それでは、この歌は晶子のプライベートを知らないと鑑賞できない歌であろうか。たとえば、享受者がこの歌の作主を知らないとして、この歌を鑑賞することができないか。あるいは鑑賞の質が低下するかということを考えてみた場合どうであろう。少女の述主が海辺の生家で育った。それが分かればこの歌は充分に鑑賞できると考える。作主が誰であろうとも、「父母の家」がどこであろうとも、享受者のイマジネーションに委ねればよい。享受者の経験の範囲で共感し、感動することによってこの歌を鑑賞することができると思われる。もう一首与謝野晶子の歌を見てみよう。

   ゆるされし朝よそほひのしばらくを君に歌へな山の鴬

 『みだれ髪』(東京新詩社・伊藤文友館 明治三〇年八月)所収の歌であ
る。与謝野晶子が旅先で愛人と一夜を過ごした後朝(きぬぎぬ)の歌であるが、事実を詠んだ歌かどうかは不明であるらしい。愛人は夫与謝野鉄幹であろうと想像すると楽しい。作主は与謝野晶子。述主、主体ともに恋人と一夜を共にした女性。与謝野晶子と思われるが、そうでなくともよい、という表現になっている。事実を描いたものかもしれないし、そうでないかもしれない。述主、主体は与謝野晶子かもしれないし、そうでないかもしれない。それはもはやどうでもよいことのように思われる。鴬の鳴き声が聞こえる。朝の装いのために恋人を待たせる間、鴬に鳴いてもらってひとときを楽しませておいて欲しいと願う女心を描いて美しい。享受者は鴬の鳴く宿の恋人どうしの情景を思い描いて微笑みを浮かべる。

小西甚一は『日本文藝史Ⅰ』(講談社 昭和六〇年七月)において、「個人
的な「情」を表出することは、家持に始まったわけではなく、旅人や憶良がすでに試みている。しかし、それは共通的な思想や感情を個人の立場で詠むことが多かった」と述べる。そして、大伴家持の歌に対しては次のように評している。
   古代第一期の歌は、抒情であっても、その「情」は、うたわれている
  ような場面では誰しもそう感ずるはずの「情」を作主が代表してうたう
  のであった。ところが、家持などの歌は、その時その時の個人的な事情
  や場面に即した特殊な「情」であることが多い。そのため、人麻呂の歌
  は、かれの経歴がよくわからず、どのような場面で詠まれたのか不明な
  ものでも、現代の日本人にとって感動的でありうるのに対して、家持の
  歌は、歌そのもので現代人を感動させることが多いとは言いにくい。家
  持の歌を批評するためには、その伝記を詳しく調べ、歌の生まれた背景
  を再現しながら味わう必要がある。それでも、詠まれたときの状況を充
  分には再現できないから、家持の歌は、とかく低めに評価されやすい。
 家持の歌を十把一絡げにこのように評すると、家持にとって気の毒であるが、『萬葉集』後部は家持の私家集のごとき様相を呈しているので、玉石混交の歌群となっているのだろうが、多くの「石」が混じっているのかもしれない。ここで注目したいことは、「共通的な思想や感情を個人の立場で詠むこと」であり、「うたわれているような場面では誰しもそう感ずるはずの「情」を作主が代表してうたう」ことにより感動を生ずるということである。ここで分かることは、歌によって表出された「個人的な「情」」が感動を与えるためには、その「個人的な「情」」が作主のものであると同時にその歌が共有される享受者にとっての「共通的な感情」である必要があるということである。私性の表れた内容でありながら、共通する部分があるということが、共感を呼ぶということになろうか。
 批判にさらされている大伴家持の歌を試みに見てみたい。

     興に依りて各(おのおの)高(たか)円(まと)の離(り)宮(きう)の処(とこ     
    ろ)を思ひて作りし歌五首(四五〇六~四五一〇)
   延(は)ふ葛(くず)の絶(た)えず偲(しの)はむ大(おほ)君(きみ)の見(め)しし      野(の)辺(へ)には標(しめ)結(ゆ)ふべしも(四五〇九)
    右の一首は右中弁大伴宿(すく)祢(ね)家持。

 『萬葉集巻第二十』四五〇九番、詞書きにある五首の歌の内、四番目の歌である。 
 詞書きによって何について詠んだ歌かが分かるが、詞書きが無ければ何を対象に詠んで何を偲ぶのか、何のためにどこに「標結ふ」のかが分からない。「延(は)ふ葛(くず)の」は枕詞である。(高円の離宮を)絶えることなく偲ぼうと思う、大君(聖武天皇)のご覧になった野辺には標を結うべきだよ。という解釈が与えられる。『新日本古典文学大系4萬葉集四』(岩波書店 平成一五年一〇月)の注に「標を張ってみだりに入ることを禁ずるのは、荒廃を防ぐというよりも、真に故天皇を敬慕する人以外の立ち入りを忌避したい心情なのであろう」とある。亡くなった聖武天皇を慕い、高円の離宮を愛おしむ気持ちが表現されている。ただ、理解するには若干の技術が必要なようである。詞書きを前提に解釈をすること、五首連作の中の一首であること、「標結ふ」の意味などである。このことが分かれば、作主が誰であろうと、大君に仕えた述主が大君が亡くなった今、大君とともに過ごした野辺を眺めながら、いつまでも大君のことを偲びたいという「情」を味わうことができる。この連作五首の内、二首は大伴家持作であり、あと三首はそれぞれ別の人の作である。これらの歌はその四人に共有され、鑑賞されれば用を果たす歌である。『萬葉集』に採用され、多数の享受者に鑑賞されるに当たっても、詞書きによって理解は促されるであろう。秀歌とは言えないまでも佳歌である。秀歌と分ける点はと言えば、享受者と「情」を共有できないところであろうか。述主の情をおもんばかることはできても、享受者には高円の離宮を思い、大君を偲ぶことはできない。個人的な「情」を詠む歌の限界がこのようなところにあるのかもしれない。ただ、大伴家持はそんなことは知ったことではない、ほうっておいてくれと言うだろう。分かってもらいたい人だけに分かってもらえればよいのである。
 では、次の歌はどうだろうか。大伴家持が好きなホトトギスを詠んだ歌である。

     霍公鳥(ほととぎす)を詠みし歌一首
   木(こ)の暗(くれ)の茂(しげ)き峰(を)の上(へ)をほととぎす鳴きて越ゆな           り今し来(く)らしも
     右の一首は、四月に大伴宿祢家持の作りしものなり。

 『萬葉集巻第二十』四三〇五番の歌である。「峰」は佐保山かと思われるそうだが、この際不問。木が暗く茂る峰のあたりを、ホトトギスが鳴いて越えるのが聞こえる。今しもやって来るらしい、と解釈する。作主を問わず、述主も不要。あるけれども、詞書きさえ要らない。鬱蒼と茂る山中の森にホトトギスの鳴き声が聞こえ、近付きつつあると感じる情景を味わえばよい。特殊な個人的情報は不要の歌でる。このような歌が秀歌なのであろうか。場面を思い描いて理解することができるし、一首で完結している。悪くはないが、良くもなくはないか。何が良くないのか。それはこの場面がありきたりに感じる点だと思われる。一般的で、誰もが容易に思い描くことができすぎるのである。工夫はと言えば四句切れが斬新かと思われるところか。ホトトギスの鳴き声が近付いてくることによって、ホトトギスが暗い森の峰を越えて近付いてきていることが推定できるという内容は期待を裏切らない。通常の美とも言うべきものであろう。古代の享受者はそれで良かったのかもしれない。現代の享受者はそれでは満足しない。ここでも大伴家持はほうっておいてくれと言うかもしれない。論者は私性の有無による作品の良し悪しを検討しているのであるため、いらぬ評価を加えることになっている。取り上げた二首の大伴家持の歌を見た場合、まだしも、私性の発揮された「延(は)ふ葛(くず)の」の歌の方にオリジナリティーを感じる。

 前掲の与謝野晶子に戻ってみよう。それぞれにオリジナリティーを感じる歌であるが、後ろ二首の方が独自性をより強く感じる。「金色の」の歌は「夕日の岡」であるため銀杏の葉が「金色」であり、「ちひさき鳥のかたち」をしているところにオリジナリティーがあり、その独自性を是と感じて共感するところに感動を生じる。「海恋し」の歌は述主が海の側で育ったという個人的な事情を描いていてオリジナリティーがあり、その境遇を思い描くことで共感を生み感動を味わう。こちらの方が独自性を強く感じる。同様に、「ゆるされし」の歌も「朝よそほひのしばらく」の間鴬に鳴いて愛人の無聊を慰めて欲しいという、述主の個人的な体験と特殊な状況、独特な感情を描いて個性満載である。私的な状況を歌にする方が独自性が出るのは当然であろう。それでは独自性を求めて、個人的な私の事情を歌にすることが、よい歌を作る極意であろうか。とは言っても、何も知らない他者の事情を詠んだ歌を読んだところで、その状況や気持ちが分からない歌を詠んだのでは独りよがりのそしりを受けることは免れないだろう。歌を詠むことにより、その状況を把握させ、享受者のイマジネーションに訴えて共感できること、さらにはそこに独自性があり、感動を生むことが優れた歌の条件である。

 当然のことではあるが、歌を詠むに当たって、個人的な事情を詠む必要などまったくない。モチーフは何でもよい。モチーフとは動機・理由・主題であるということだが、描くべきものは様様であろう。与謝野晶子『みだれ髪』に「くれなゐの薔薇のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな」という歌がある。歌の完成度としては褒められるほどのものではないが、歌を詠む姿勢を表明した歌として興味深い。歌を詠む際には「霊の香」のある歌を詠めというのである。比喩的表現であるが、「霊の香」とはどのようなものであろうか。先ほど歌を詠むに当たって「モチーフは何でもよい」と書いた。なんでもよいのではあるが、そこにはモチベーションが必要なのだと思われる。「動機付け」と言われる言葉だが、あることを表現したいと思う意欲である。そのことを詠まなければならないと思う熱意とも言えよう。その意欲にあふれた内容、魂を震わせる言葉を「霊の香」と表現したのではないかと考える。もちろん、個人的な事柄を歌に詠まなくても、オリジナリティーあふれる歌を詠むことができようし、モチベーションの強い歌も詠めよう。しかし、そのモチベーションを持つことのできる最も身近な素材が「私の事情」なのであろうと推察される。
 写実主義を標榜するアララギ派を代表する歌人斎藤茂吉の歌集『赤光』(東雲堂 大正二年一〇月)に「死にたまふ母」其の一~其の四という母危篤の連絡を受けてから母のもとへ急ぎ駆けつけ、母の死を看取って葬送にふした後の心境まで表現した連作が五十九首ある。一部が掲載されている高校の教科書もあるため、その存在が広く知られているが、全部で五十九首もあるということを知っている人は多くはないだろう。母の死の事情についてかくも多量に作歌をしたのはそれだけ母への思い入れが強かったのであろうことを表す。写実主義というのは、事実を描写する限りにおいて作主自身の私事を記述することを排除しないものであるらしい。斎藤茂吉のこの歌群は母の死に対する茂吉の悲嘆の大きさを表すものであろうか。母の死という茂吉の私事を歌にした、「死にたまふ母」という一連の歌群は、茂吉がどうしても歌に詠まざるを得ない悲しみの叫びが歌となって表れたものと思われる。中に次のような歌がある。

   我が母よ死にたまひゆく我が母よ我(わ)を生まし乳(ち)足(た)らひし母          よ

 これはもはや写実ではなく叫びである。短歌としてどうかということも問題ではない。やむにやまれぬ作歌衝動が叫ばした歌以外の何ものでもない。歌のできる現場の一つとして記憶にとどめおくべき一例であろう。
 同じくアララギ派の代表歌人、島木赤彦に次のような歌がある。

   箸をもて我(あ)妻(づま)は我を育(はぐく)めり仔(こ)とりの如く口開(あ)         く吾は

 大正十五年『アララギ』五月号(大正一五年四月)掲載の歌である。作主島木赤彦晩年の病床における一場面であろう。前後の状況が分からなければ鑑賞に堪えない歌であるが、老病身の述主であることが把握できれば鑑賞できる。食事を口に運んでもらって生きながらえている病身の有様を「仔とり」と喩えたのである。食事介護の様子を描いて写実かもしれないが、奇しくも与謝野晶子の「金色の」の歌と同様に、「仔とり」の比喩を用いたあたりは写実から離れていよう。妻の食事介護によって生かされている自分を「仔とり」と描くことが作主の差し迫った作歌衝動だったのである。

 小西甚一は日本文藝の特質の一つについて「作調(トーン)における主情性および内向性を挙げなくてはならぬであろう」(『日本文藝史Ⅰ』講談社 昭和六〇年七月)と述べる。それに続けて次のように論じている。
   日本に主智的な作調が無かったわけではない。それどころか、日本の
  中世様式に対しての示標となる和歌表現は、きわめて主智的である。
  『古今和歌集』の撰者たちによって確立された歌風は、感じたとおりを
  直接に表出せず、いちど「理」を媒介とする観念操作に屈折してから、
  その「もっともらしさ」に依存しながら内容となる心情を間接的に言い
  表わす智巧性が特色となっている。ところが、その主智的な表現は、じ
  つはシナからの借用であり、先達の紀貫之は、晩年にいたり「理」の媒
  介がない心情の直接的な表出を志向した。歌の基本として『古今和歌
  集』を仰ぎ信ずべしと主張した藤原俊成も、自身の歌はそうとう主情的
  だったし、青年期において貫之たちとは別趣の主智性をうち建てた定家
  は、晩年やはり主情的な表現へ傾斜している。これらの事実は、主智的
  な作調が日本固有の感じかたにどこか協和しないことを示す。
(引用者注:小西甚一は既に完成されている模範に随順し同調してゆくのを正しい実践態度とするものを「雅」と呼び、その表現が主導した時代が『古今和歌集』より始まる時代区分であるとして、中世と呼んだ。)
このことから、日本文藝に受け継がれてきた感動の質は主情性や内向性に多くを負っていることが理解されよう。その内容の大部分は個人的な事情の表白であったろうことは容易に推察される。
 作主が歌を詠む場合に、個人的な事象、感情を作歌衝動として詠むことは、日本文藝の特質の一つでもあったのだ。いや、逆に作主がやむにやまれぬ衝動で個人的な事象、感情を多く詠んだ歌の累積が日本文藝の特質になったと考える方が妥当であろう。短歌は作主の個人的な「あはれ」という感動詞の叫びであり、泣き声であり、快哉の喜び、激怒、悩み、恨みの呻きの声の表出されたものと考えてよかろう。真情に迫る表現であってこそ享受者を感動させる力を持つものと思われる。
 ただ、確認しておかなければならないことは、「モチーフは何でもよい」のであるから、作歌衝動が私事でなければならないわけではない。モチベーションをもったものであれば素材は何でもよいのである。第一享受者である作主が是とするものを詠めばよい。次に、享受者は作主が誰であるかを必ずしも知る必要はないということである。享受者は述主の事情を推察して、共感し感動する。「私性」は創作時点では作主個人のものではあるけれども、享受するときは作主不明でもかまわないのである。述主がどういう状況でその歌を詠み、表現しているかということが分かり、享受者がその歌を鑑賞できればよい。
 短歌は単独で理解される作品が優れた作品なのであろう。しかし、詞書きや左注があって理解される歌もあるだろうし、歌物語として作歌事情が書かれている歌もあるかもしれない。あるいは連作の中でのみ理解可能な歌もある。いずれにしても、その歌を理解するための情報があって理解できる歌でもかまわないと思われる。また、その歌は事実である必要はない。虚構であっても作主の作歌衝動で生まれ、述主の事情が把握でき、享受者が共感感動すればよいのである。また、作主が素材にした私事と表現された結果の述主の事情が異なっていてもかまわない。鑑賞する側の享受者はそれぞれの享受者の私事の範囲で、表現されている歌を鑑賞するのである。

  参考文献

『日本の詩歌4与謝野鉄幹与謝野晶子若山牧水吉井勇』(中公文庫 昭和五〇
年三月)
『日本の詩歌8斎藤茂吉』(中公文庫 昭和五〇年四月)
『島木赤彦全歌集下巻』(河出書房 昭和二四年 三月)
小西甚一『日本文藝史Ⅰ』(講談社 昭和六〇年七月)
『新日本古典文学大系4 萬葉集四』(岩波書店 平成一五年一〇月)
『新潮日本文学小辞典』(新潮社 昭和四三年一月)

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