The taste of tea 2、茶道の由来(整え版)

結局、茶道は利休によって、まとめあげられたと考えられ
茶道の話をする者は、利休、利休、という。

その利休が茶道を大成することができたのは、
その師、武野紹鴎と、その弟子の南坊宗啓との縁が大きい。

よって 、茶道を説明するには是非とも、彼ら師弟3人の問答を考察する必要がある。

一般的に茶祖と言われ、茶道を日本に持ち帰り広めたのは、村田珠光である。
珠光は幼名を村田茂吉といい、南都称名寺※に住み、三〇歳ごろから紫野大徳寺※の一休和尚についていた。

※称名寺(しょうみょうじ 現在の奈良市 ご本尊阿弥陀如来
1265年建立 5月15日の珠光忌のみ本堂と茶室を特別公開)
※一休和尚 一休宗純(いっきゅうそうじゅん  臨済宗大徳寺派の僧。後小松天皇の子供とされている)

※大徳寺(だいとくじ 京都市北区紫野 臨済宗大徳寺派総本山)

一休和尚から信頼を受けて、園悟禅師※の墨跡を受け、庵の中にかけ、仏様にも 香と華を供え、湯を沸かし、茶をたて、同好の友、鳥居引拙、十四屋宗悟、十四屋宗陳などを招いて、談話、風流な話、面白い話をした。

圜悟克勤(えんご こくごん 中国の禅僧)

茶道を、俗世間の煩わしさから離れたところに導いて、礼、敬意を厚くし、行、実践を正しくして交わった。 また、「茶道」という書物をまとめ上げ禅師にさしあげた。
茶道を、悟道と言われる仏道の真理や精髄を悟る芸道へと導いた、と伝えられている。 これから察すると珠光の点茶はこの時すでに作法だけの点茶ではなかった。悟道の、妙味がすでに作法に加わっていた。

紹鴎は初め、歌を三條実隆(※室町時代後期から戦国時代にかけての公卿)に学び、

その後茶道の風流を聞いて珠光の後を追い、宗陳、宗悟、 に 従い、その奥深い知識を積み重ねて極め、また、古岳宗亘和尚(※こがく そうこう 臨済宗大徳寺住持)に習って、禅を学んだと伝えられている。

そのため、紹鴎の茶には、歌の基礎があり、正しい作法があり、禅の味がある ことを忘れてはならない。

それから御調臺飾り(ごちょうたいかざり)や書院飾りなどの形式で飾りたてられた海外、主に中国からの美術品が人を惑わしてしまい、器物はただ珍しく派手で華やかでさえあれば良い、としていたのに対して、

紹鴎は茶器の標準を改めて、品質を清潔ですっきりしたものにし、
飾りつけを簡単にして、(真、行、草でいう)草の茶器(※生活に根差した茶器)を工夫し、 草の座敷を採用して、結果として、草の茶の味を定めてこれを愛して好んだ。

(草※生活に根差した)

このように変化をさせた紹鴎の心には明らかに、器物その物よりも、器物を動かす心の動きが重くうつっていたのである。

この行方は、中国文化を丸呑みこみにし、中心も秩序もなく、漫然と飾りたてていた、それから先の装飾方に一つの新しい傾向を開いた。

この心がけの上に組み上げられた茶法を、紹鴎も利休も わび茶と呼んだ。

紹鴎はわび茶の心を

見渡せば、花も紅葉もなかりけりうらのとまやの秋の夕ぐれ

※見渡してみると、美しく咲く花も見事な紅葉も見あたらないことだよ。浜辺の粗末な漁師の小屋だけが目に映る、なんともわびしい秋の夕暮れであることよ

と詠んだ定家卿(藤原定家)の歌の心を、

そのまま引き継いで、これを茶境の説明として、茶道とは
「一心得道の取り行い形の外の技」と言っている。

その紹鴎に師事した利休は初め易庵に茶を学んだ。易庵は能阿弥の流れを 汲んで式法(作法)の面から茶に詳しかった人物である。

利休はこの易庵の作法の茶の上に、 紹鴎の心の茶を加えて、結果、わび茶を大成した。 そうして、「家は漏らぬ程食事は飢えぬ程」と言う、安易な天地の真理を悟り、このことに生活の理想を求めた。

その質素な生活、言い換えれば、物欲にけがされない知足安分(足ることを知り境遇に満足す ること)の生活の中に、
純粋で偽りや邪心がない境地を開こうと企てた。

花をのみまつらん人の山里のゆき間の草の春を見せばや

※(まだ花が咲かない春が来ないと)待っているだろう人に、山里に積った雪 のあいだにわずかに芽吹いた若草にも春は来ていますと見せたいものです。

藤原定家の一首をもって、物欲の世界から離れてようやくあらわれてくる心の尊さを楽 しんだ。

この心理の方面にさらに明らかな眼を開き、「技の利休」が「道の利休」に達したのは、愛弟子の宗啓を手に入れて、宗啓を導き、また自らも導かれつつ、その禅の味をさらに一段階深くしてからである。

こうして利休はこの道を行く人が特に陥りやすい、俗事とのかかわりを絶つという悪い習慣をさけて、貴い心の生活だけをねらった。

相応の人が、利休に、茶の湯の極意を、尋ねた時、「 夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも温かなるように、炭は湯の沸くよう に、茶は美味しく点てるように。これで秘密はございません。」と答えた。

心の生活は、世間から離れた境地ではなく、平時の行為そのものの中にあるべきと、言ったのである。

客はあっけにとられて、「そんなことなら、誰でも理解していて当然である。」 と言った。

利休は、
「それならば今申し上げた心に叶うようなお茶会を開いてください。
私が客として参加し、その心得がきちんと出来ていたならば、以後はあなたのお弟子になりましょう。」
と言っている。

三歳の子供にもわかりやすいが、八十の老翁にもなかなかできることでは ないと、鳥窠和尚※が言われたと同様で、無一物の境地と、平凡な日常との間で、巧みに人を強く感動させることができるのは、貴い心の、ひらめきよりほかにはない。

※鳥窠道林(ちょうか どうりん 中国唐時代の禅僧)

それなのに 豊臣秀吉は功労のあった家臣に与えるべき領地がなくなっ た時に、代わりの手段として自らの手で茶器を与えることを発明した。

いわゆる、器物拝領(高貴な人から器をいただく)が、このことである。

こうして、茶器はとても貴重な宝物になり、 領地に引き換えても手元に置きたいと言うような執着心を湧かせる道具となった。そして、拝領物飾りや拝領物扱い(茶道の式法)という、飾り方や扱い方も考え抜かれた。
純一無雑の境地になりかけた茶道を、
物欲の汚れに導き、 結局、わび茶は、骨董いじりになり始めて、茶道は道(教え)から離れるようになった。

時の回り合わせが悪い、と諦めた、宗啓は、利休の自刃(刀による自殺)の後一年、利休忌 (利休のために慎んだ生活をし)を営み、ふらりと庵を捨てて、その姿をくらました。

豊臣秀吉の後を受けた、徳川家康は、茶道を政策に利用した。 すなわち、家づくりに数寄を凝らして、珍しく奇妙なものを競わせるようになったので、またさらに骨董いじりが助長させられた。

このような間、茶道の基本精神は、次第に忘れ果てられた。

習う人は、無駄に、形の末端を模倣し、すでに茶は日常生活から離れ去って、徳の生活 (品性のある生活)に憧れる人は、
「茶をもてあそぶものは家道を失う」 と戒めて、これを忌み嫌うようになった。

しかし、よく味わってみれば、茶道の教えは、貴く大切にする品性のある 生活である。 せっかくのこの貴い光が、おおわれて、貴い跡が埋もれた。茶道は骨董いじりに重きを置きとして、秘伝口伝の形式ばかりを特徴とする、珍妙な遊びごとと成り果ててしまった。

けれども、その本来の面目を喪失した、悪習を洗い去って、生活の拠り所となるような茶道の真諦(最高真理)を学ぶと言うことは、

今日のような、 混沌とした世の中において、どのように生活すべきか、知るために、貴い 光と力とを得ることができると思う


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