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The taste of tea 6 自然の趣き(味わい)


客を迎えて、もてなしをする時、

その主人の真心は、一種の趣きになって現れる。


それゆえ、この趣きは

出さなければならないというよりは、

主人の心から自然に現れるはずで、


これを自然の趣きという。


この趣きは客の心身を加えて

一切のわずらわしい雑事を忘れさせる状態で、

この状態を作るものは、人工物もあれば自然物もある。

とりわけ、自然物はその第一位である。

自然物は人工品と違って


全ての人の共同所有で、全ての人の共同所有のまま

楽しむことができるため、

貧富によって区別がなく、

地位や身分が高くても低くても差別がない。


結局、東坡(※中国宋代の文人蘇軾、そしょく)の

「これを取るも禁ずることなく、これを使ってもつきない、これ宇宙のすべての物をつくり支配する神が、豊富に果てしない」

である。


紹鴎も自然物によって、その働きを自在にして、

利休も自然物によってその道の考えを磨いた。


この自然物をありのままに使い、
ありのままに見ることから一歩進めて、


主人がその中に良いところだけを抜き出して、客に気づかさせるとき、客はいわゆる、主人の好みに導かれて、新しい天地へ移る。


それよりさらに一歩を進めて、自然の姿を他のもので思い起こさせるまでに主人の働きが深まってくるとき、


結局山里の趣きが室内へ取り込まれて、客は形の世界から憧れの世界に導かれる。

自然の見方には、以上のような三段の階段がある。

自然物をありのままに使い、ありのままに見る第一の境目は「露地」である。

露地とは茶室に行き着く道すがらの庭のことである。


「争出火宅安穏得出露地而座」という法華経の文句からとった言葉である。
※妙法蓮華経譬諭品第三「争出火宅 是時長者 見諸子等 安穏得出 皆於四衢道中 露地而坐」(共に走り、競争して、燃えつつある家から出て行った。その時、長者は、子供たちが安穏に出て、皆、四辻の道の中の露地に座っていて、怪我ひとつなかったのを見て、心が泰らかになって歓喜し踊った。)


それは物の塵を取り去った清浄の天地である。

「露地の作り方は心をすますことにありて、目を楽しますことではない」という教えてに従って、

奇妙なものは避けて素朴を体とする。そうすると、山野自生の草木と、普通の石との案配で、その味わいを作れば足りる。


わざわざ変わってるものを求めるのはもちろん悪いが、またこれと反対にわざわざ素朴を求めるのもよろしくない。

ある人、露地に見事なしだれ桜の老木があるのをみて、この木がなかったとしたら、というと、

相客は、それでは吉野山の奥には、庵を作らないで、

以前からあったこの老木をそのままにして自然の趣きにした、主人の働きはとても尊い、と褒め称えた、という話しがある。


老木は一日にして育たぬ。この得難いものをそのままにして、作り上げた露地の趣きこそ

露地作りの本当に意味である。

変わったものを求めようとするために、
要らぬ費用を捨てたこととは差がありすぎて、比較して論ずることもできない。


「露地の趣きは野地の趣き」というのは
手を入れるのを避け、

山野自生の趣きを主とするの言葉で、木の植えようでも、とりわけ目立つのを嫌う、

これにひとすじの路に通じる飛び石は、「渡りを六部、に景を四部」という利休の言葉に従って、

石は一足のせるだけの大きさとして、悪き石を善く置きならべるところに、主人の働きを見せる。この「善く」とは「見事に」という意味ではない。

桑山左近の露地を訪れた、ある客が「この石の置き方は見事だ」と眺めて入ってので、

左近は客が帰っ後、人の心を惹かないようにその石を置き直したという話しがある。

ただ、心の平らなことを愛して、煩わしいことを避ける気持ちで、この状況に欲を起こさせたのは、
主人の不心得と感じたのであろう。

この露地にさらに清浄の趣きを出す主人の働きは掃除と打ち水である。


一口に言えば、掃除であるが、茶道入門の第一歩としてあるくらい実際には大変難しい。

土佐の大守が茶匠片桐石見守へ、入門させられた時は「それならば掃除を」というので露地の掃除をさせられた、という話しである。それならばその掃除の心得はどこにあるのか興味のある話しである;


通天の鼎州和尚が、一日山門内で、松の葉の落ち葉を一つ一つ拾っていた。

これを見て、侍者が「お手で一つ一つ拾っているのは大変でございます、どうせいただいまホウキではきますので」と声をかけた。

鼎州和尚はつくづくと侍者の顔を見て、
「今の言葉は修行する人の、気持ちではないなあ、どうせなどと後をあてにするようでじゃいけない。一つだけ拾えば、一つだけ綺麗になるんじゃ」と忠告した。

掃除、清浄は、実にこの心である。

はたきを持った時にだけ掃除があるのではない、
一つのちりが心に止まった時その塵を取り除けて、常に清浄とするところに「精神の掃除」がある。

古田織部が茶会に招かれたとき、垣の外の掃除が、行き届いていないのを見て、「深い山とて咲けば劣らぬ桜かな」という句もあるのに、

見えないからといっておろそかにするのは
茶を習う者の心ではないと言われた。
見えない、とか、どうせとかいう気持ちでは
本当の掃除は出来るものでなない。


利休が紹鴎から掃除を命令されたので、路地へ出て見ると別にこれと言う汚れもない。先生のおっしゃることをどうすべきか、考えた後、木を揺らして飛び石に、少しの落ち葉を落として、先生に掃除が終わったことを告げた。


落ち葉の趣きが渋みがあり、大変面白い。
紹鴎はこれを見て、この才能は必ずこの道を大成させるだろうと感嘆したという。


掃除はただ、はいて捨てればいいのではない。掃除の後が大切である。そこに趣きがなければならない。


利休は当然のように捨てる物を利用して、趣きを作ったのである。加賀侯が、その庭師を使わして掃除の仕方を小堀遠州に学ばせたとき遠州は「とにかく綺麗になるのは悪いことだ」と教えた。


庭師は、「それでは掃除をしなければ良いのでは」と尋ねると、遠州は笑いながら、「綺麗でも良くないのに、むさいのはもっと良くない」と答えた。それは趣き、という言葉をさけて

趣きの出し方に思いを至らせる深い、導き方である。

掃除の済んだ露地に、さらに清々しい趣きを出すのは打ち水である。これを露という。三炭三露と呼び、秘伝としてある。炭というのは炭のつぎ肩、添えrは湯加減のために大事な火の相を整える、その炭のことである。露と同じく一回の終始に三度あるので、三炭三露という。実際に試してみるとかなりの練習の必要がある。


三炭三露は、席入り、中立、退出前の三度の打ち水である。

いずれも程よくといっているのは、分量のことだけではない。時によって、まちまちにするべき、主人の心遣いである。

極暑の時には、木は梢から雫のおちるほどと言われているけれど、飛び石、踏ぬぎ石はうるおい程度で十分である。一体に深い山の路のしっとりうるおった趣、夕立の過ぎた後の景色などをうつせばいい。
この気持ちを冬にとれば、消えぬ間を愛する雪の眺めである。

飛び石に積もった雪だけを水で消して、庭の面には、振り積もったままの趣きを喜び、手水鉢の柄杓の柄に積もった雪をそのままにして、片口をにじり上がりの縁先に出したりする。


この趣きは、ただ、露地の中だけどは限られない。露地は垣で狭く限られた空間であっても、垣越しに見える自然はみんな主人の手際によって路地の一部になる。

利休は、露地の残雪が気に入らなかったのでこれを水で打ち消して、木の間に見える生駒山の残雪を遠景とした。


また、暁の茶会に客を路地に迎えて、「もうすこし早ければ、残った月の入る景色でございましたのに」と述べた。かなり遠くの山でも、空てっぺんの月でも共に路地の一景である。


しかしながら、これを上手に取り入れるということはなかなか難しいものである。

堺にあった利休の茶庭は意味を見晴らして、すこぶる良い眺めであったが利休は海の方へ木植えて、


ただ手水鉢のつくばいで、木の間から白浪がうっすらと見えるように造り直して、広い海と自分とをこの一点で結びつけた。路地は飛び石の外を通らないというのが決まりで飛び石がいかに綺麗でも石を避けてこけの上を行くべきではない。


しかし時に飛び石の上に小さな栗石二つ三つを置いて置くことがある。これを関石という。客の行くことを止める主人の心遣いであり。石の代わりに竹もつかう。これを関竹という。


また飛び石の中の一つに一段と異なる石を置くことがある、これを要石という。要石のあるあたりは主人が心を込めた景色のある場所で、客はここで、近景、中景、遠景の案配に、眼をつけるべきである。

それに加えて花の朝月の夕を思い起こすような余裕が欲しい。

自然物を自然物として味わうことから一転して、そろそろと憧れの世界に入る。紹鴎は手水の蓋に青桐の一葉を使って、氷室の雰囲気にした。筧の音、谷川のせせらぎ、斧の音、木枯らし、松風など、いずれも自然に対する憧れである。

一口に松風といっているけれどその煮える音の変わり方で、ミミズのなく音、松風、雷鳴と分けて、煮える様子から蟹眼  茶釜の湯の煮えたぎること連珠と分けている。

松風の仕切る窯の下には灰の形の決まりがあって、
峰続きや、海浜の景色を納めている。

小田原の陣引き払いの折に、利休は古田織部と共に散歩の帰り道、散歩の趣の面白さに、眺め入りつつ
織部に向かって「この波打ち際の面白さをど思うか?」と尋ねた。


織部には、別に答えようがなかった。

利休は「この趣に風炉の中にうつしたい」という話しとまた利休が、有馬の阿弥陀坊から、峰続きを眺めたとき、「よき風炉の中」と称賛したというのはこの灰型の由来である。

このことは道理の面から工夫した趣きが相集まって「鳥なかず雲埋もれる老樹木」というもの静かな素晴らしい場所を作ってここに客を導くのである。

そうすると、ここに客になる者は客になるのにまた心境を必要とする。


夫が縁側に出て月をめてていた時、妻が、明日食べるものがありません。どうしましょうとたづねた。明日のことは明日にして、まあこの良い月を見ようと言われて、

そのまま横に座って、清い光と夫と影を並べて、夜の更け行くのを忘れたという話しがある、夫の心に和し、万事のわずらいを外に置いて、この月に対した妻の心こそ、主人の心づくしに導かれて清潔な露地をいく客の心である。


この心の前には

自然はその真の姿を隠さずその真の声を惜しまない。

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