the taste of tea 7所作と言葉
心の働きが、その時の状況に合わせた動作となる。
これを「所作」という。
言い換えれば、主人においては、もてなしぶり、客においては、客ぶりである。
この二つが交じり合う時、
主人は、客の心になり、
客は主人の心になって、不昧公の、
「主人の粗相(あやまち)は客の粗相、客の粗相は主人の粗相」
という主客和楽の境地が開かれるのである。
「馳走」(もてなし)と言うのは文字の示す通り、かけ走るのである。
すなわち主人自らが、奔走し尽力し、客をもてなすことである。
この道理に従って、主人が客のためにする「所作」とは、すべてがすみずみまで行き届いていて、慎み深く敬い、道に従い、
一物を動かして、一器を拭うにしてにも
「清」「敬」の体制を作ることが必要である。
器物を正しく扱うためには、、器物の正面を見立てることが第一である。
この正面を、面とも言う。
絵とか文字とかめぼしいものがあるときにはこの面の「見立ては」そうでもないことだが
ちょっと工夫が必要なものもある。
例えば模様もない茶碗では、ただ主人の好みが正面の見立てとなるのである。
こう定められた面を、自分の方に向けて扱うことが原則で、
これを客に渡すときはその面を改めて客に向かわせる。
茶室でお茶をいただく時、茶碗を回すと言うことを伝え聞いている人々が、二度回すのですか?三度回すのですか?としきりに尋ねる。
この回すと言うのは二度とか三度とかいう回数ではない。
茶碗の正面をいかに扱うかが要点で、二手に扱おうとも、三手扱おうとも、正面を主人に向かわせればそれで良いのである。
主人が心を込めて面を改めて出したならば、飲み終わってから客はその面を主人に向かわせて返すのが【和】であり【敬】である。
一体、なんであろうと一度正面を自分の身に向かわせて、扱う時、
初めてそのものに宿る、心の影を十分に認めることができる。
このことを十分に点検して。客に進めたならば、粗相が、あるはずがない。
器物を取る手は、軽く手早くするが、置くときは、重く思いを入れるのが良い。
紹鴎も「何にしても道具を置いて帰る手は、恋しい人に別れるように」
と言っている。
この心持ちを「残心」(ざんしん)と言う。
この「残心」を、軽く扱いにすることを「心地」と言う。
置きっぱなし、くみっぱなしにしないで、
どう置いてあるか、どう(水を)汲んで置いてあるかをよくふりかえって見ると言うことである。
三の炭の中、
客が退出するに当たって、つぎ足す炭を「立炭」と言う。
この「立炭」の扱いは、客に帰れと示すことではない。
水にして返さない主人の働きである。
立つ客は「名残の拝見」をして
一器一物にも、主人の心づくしを汲む思いをさら多くして、それを一期(いちご・一生)の思い出として退出する。
「立炭」も、「名残の拝見」も共に主人と客との間に養われた、「心地」である。
重い物を苦しそうに扱うのは、単に見る目に粗末で立居振舞が悪くなるばかりではない。
見る心にやすらかな心を起こさせない。
軽いものを軽々しく扱う心のゆるみは、意外なの失敗を招く原因にもなる。
「強気に弱く、重きに軽く」と言うように、釜・水差しのように、
重いものを運んでも落ち着いたゆとりのある姿を失わず、 茶杓・はたきのような軽い物を動かしても、厳かな心を忘れないように扱うのが良い。
「小は、大に、大は小に」と言う教訓もまたこの一面である。
物を運ぶ場合には一に眼、二に足、三、腹、四、力の、四つが調子よく揃わなければならない。
手で器ものを扱う場合には、左は保つ、右は扱う手として、運ぶべきものはこれを左掌に乗せて支え、右手を軽く添えてそれを「心地」とする。
このように働くべき右手が自由になっていると言う事は、変化に応じてとっさの働きができる理由である。しかし重いものは両方の手で扱うのはもちろんである。
運び出したものを客に渡すには二つの様式がある。それは据え渡し(置いて渡す)と手渡しとである。据え渡し、は「真の進め方」で
一旦己の都合よい位置に置いて、さあ次にこれを客のとりやすいところまで進めることが必要で、これを「心地の大切な教え」とする。
手渡しは結局、「行の進め方」ではとるとそのまま扱いやすいように勧めるのがとても大切で、
それとともに渡す手は動かさないと言うことを忘れてはいけない。
これは刃物の受け渡しを考えてみれば、すぐに気づくことで、渡す手にも取る手にもどちらにも怪我があってはならない。
この上に受け取るのに都合の良い高さも考えて、渡すのも、全体の姿が先方によくわかるようにと言うまで注意がいき届いていれば十分である。
主人も客も立ったままで手渡しするのはすなわち「草の姿」で「心入れ」は「行」と少しも変わりがない。
全てひっくるめて扱いは体でするのを原則としていて、とりわけ細く小さい「手前」は力を入れて大きくはっきりとするのが良い。
棗(なつめ)の清めには全力がこもり、 七寸の茶杓を清めるのには、百間の長い柄を、と言う「心持ち」でなければならない。
以上の扱い、運び等の「所作」においては。体に働く部分と、働かない部分がある。
この働く部分を「実」働かない部分を「虗」と言う。
手で言えば実の手は、仕事をするだけに注意が集まていて、見苦しい事はないが、虚の手は、忘れられていて乱れが出てくる。
それで七部の心を虚の手におけと言われている。
左右の手が重なり合って、体の溝が乱れるのを「八重手:と言う嫌がられる。
このように茶道の「手前」にはすべてに隅々まで慎み敬うと言う(周到恭敬)心持ちが現れなければ手前の手前たる理由がない。
しかしながら孤雲懐奘(えじょう・永平寺二代)禅師 が
「道を得る事は、正しく身を持っている事だ」と言われたように自分の一挙一動に細かい注意が十分に働いて
少しの手落ちがないと言うまでにこれを体得し、これを体験すると言う事は、決して簡単にできることではない。
これには「習熟」と言うことがもっとも大切な要件である。
一々の動作によく注意して「習熟」に「習熟」を重ねてくれば習い性となって、ここに初めて尊くて、正しい姿が現れて
つかず離れずの呼吸も、自分のものにすることができ
姿の上にが、趣き、が宿るようになるのである。
「平手前」の練習を1日五十回ときめて
試しみるのに一手前に要する時間が、10分8分6分と次第に縮待って、手慣れるとともに雑念が影をひそめて全くの虚心となる。
このように早めることができた後改めて落ち着いて点て直すと、非常に遅い様でも
意外に早く、しかも落ち着いた気分の中、一々の「所作」が一途で嘘のない様となる。
この移り変わりには、天台史観(仏書)の優れた眞理(妙諦)と比べる位、尊いものがあると思う。
それが客の心を動かす「あるもの」である。
「器物も所作も同じ中に、しかし心の働きはうってかわりすっかり違う」と言う素晴らしい味も。ここにあり、「こういう所作の中から力を加えず、真実の天然とが現れてくる」という味いもここにあるのだ。
藤村庸軒(日本の茶匠・千宗旦の直弟子)が、建水への水のこぼし方を2年間工夫したと言うことの面白さもここにある。
高安友の進と言う能役者が「初日は大事ではない。普段の稽古が大切である。修行の時、魂を入れよく覚え込んでおいて、初日は万事を忘れて出る。初日を大切と思うのは私の芸ではない」と言っているのは味わうべき言葉である。
「平常心是道」で、いつでも大事の時でも、客前の稽古でも、変わった心持ちのなくなるまで習熟しなければならない。
名だけで実力が伴わないところから実力が伴い 【和敬静寂】が備らなければならない。
鮮やかな手技の結果を加えていくところに修行があり「手慣れして理にかなう」という素晴らしい境地になるのである。
庵内は、静寂の状態であり、できるだけ主人も客も粛然としているが良い。
しかし「無言であれ」と言うことではない。
主人の馳走ぶりを味わうことに専念するために自らの言葉がないのである。もちろんほど良い頃あいにかなった挨拶は忘れてはいけない。「巧言令色入るべからず」(論語_巧みな言葉を用い表情をとりつくろって人に気に入られようとする者は心が欠けている)
であるので極めて簡単な言葉をふさわしい時に述べるだけで良い。
簡単だけれど、名残の風情を含む挨拶が茶道の挨拶である。
物の美を扱うといっても、事あるごとにに褒めろと言うことではない。
「急に褒めないでよくよく心に受けて、感ずべき」と言っているのである。
時に主人の働きを褒めることも、習いなのではあるが、言葉遣いによっては
主人に対する敬意を失うことになるので気をつけなければならない。
不昧公が茶杓を削っておられた時、家臣が「うまくできてないものでも一本賜りたくお願いします」とお願いした。
不昧公は「悪しきものは人にあげられない。家臣としての謙虚の心持ちで言っているのであろうが、そういう言葉遣いはしてはいけないぞ」
と戒められたと言う。
又、そうでないものをいちいち取り上げて拝見をお願いし、
これを称賛する事は心ある客のするべきことではない。
これは特別なあしらいと思われるものの良いところを見出して褒めるだけで十分である。
我々は鑑定家でも骨董屋でもない。まして値踏みをする必要はない。
良い挨拶は、しみじみとした味わいの深いものである。
片桐石見森に招かれた客が「田楽」のご馳走に預かって
その串の始末に困ったので、そっと懐に入れて持っていた。
退出のとき、来客一同はお客ぶりの不満足をわびた。
片桐石見森は「お客振り不満足な所にはありませんが、とてもお口には合わないと思った串さえ召し上がりくださいまして、
主人の喜びはこの上ないと思います。」と笑った。正客は「いやいや串は食べない。寸法といい作り具合といい、
あまりの見事さに、勉強の為にと思い、頂戴してこの通り懐に入れました。」
と懐紙(かいし)の間から出してみせたので石見森は手を打って
「それこそ、真の客振りですよ。申し分ないです。」と褒め称えた。
宗徧之(※)は、「客ぶりは本当によかった。しかしこのような時は串はそのまま膳のわきにおいて返したほうがいい」
と言っている。
正客の答弁も宗徧之の評価も要点を得ている。
井伊直澄、光圀と一緒に将軍家綱から茶を賜った。
意外にたくさん飲むので光国が困りきっているのを見て
直澄は「このような席で将軍自らのお茶に賜れる時などなく、願わくばを飲み残しを頂戴したいと思います。」
とあいさつした。ちょうどいい、と光国は将軍を顧みると
「そのままと直澄へ」言うお言葉が出た。
直澄はありがたくこれをいただき、茶碗をいただいて、帰宅をした。
この心持ちが上から下へ向かえば、下をかわいそうだと思う大切な言葉となり
これを受ける人にはとても優しい愛語となる。
松平不昧公 帰国の折、「国家家旭老丹波」を呼び、茶を点て、「手前」の上達はどうだろうかと尋ねられた。
丹波は「上達のほどが見えて見事にでございます。」
と答えた。他の日に、大橋茂右衛門を呼んで、同じように茶を点て、その「手前」を尋ねられた。
茂右衛門は、「茶事は詳しくありませんのでお点前の上手下手はわかりません。ですが
われらの様な者に、主君が点ててくださったお茶をいただけることの感謝を思うと
先ほどより涙が出ております。」と述べた。
後日、丹波はこれを聞いて、自分のことを恥じたと伝えられている。
茶事に詳しい丹波は、茶にとらわれ、茂右衛門は反対に本当の意味での茶の作法にかなった。
言葉は、やはり本当の心の中があらわれる出ることが素晴らしい。
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