見出し画像

小泉八雲と大久保小学校①

 小学一年生の時である。
 秋の学内展覧会があって、絵や工作など、全校生徒の作品が体育館に展示されていた。そのさなか、何年生が描いたものか今ではもうわからないが、一枚の絵が、幼い私の心を捉えてしまったのである。それは、「耳なし芳一」と題されたもので、画面中央で琵琶を奏でる芳一の頭上で、人魂がいくつか、ゆらゆらと揺れている。芳一は少しばかり上を向くように小首を傾げ、それでも人魂には気づくことなく、一心不乱に壇ノ浦の合戦を謡っているのだ。怖い絵であった。まだ6歳か7歳の少年からすると、とても上手な絵でもあったから、その妖しさに慄きつつも、魅入られて長いこと眺めていたように記憶している。色使いなどはもうさすがに覚えていないが、その絵の輪郭は、今でも忘れることができない。
 「耳なし芳一」は、小泉八雲が晩年に著した「怪談」に収められたあまりにも有名な怪異物語である。今のように、多様なメディアが存在しない時代だったから、怖い話を求めて、少年少女は、子供向きに編みなおされた「怪談」を繰り返し読んだものであった。
 盲目の芳一は天才的な琵琶法師で、源平の合戦を語ることを得意とし、とりわけ、壇ノ浦の段を語れば、鬼神すらも涙するとさえ称されていた。その芳一が、何者かに呼び出され、夜な夜な、とある場所で琵琶を弾き、平家を語るようになった。芳一の行動を不審に思った住職が後を尾けさせると、芳一を呼び出していたのは、平家の亡霊だということが明らかになる。

 「(前略)そのときなんと阿弥陀寺の墓地から、琵琶の音が激しく聞こえるではないか。そこらは闇夜に飛び交う鬼火を除けばただひとり雨の中で安徳天皇の墓の前に坐って琵琶を弾き、壇ノ浦の合戦の段を大きな声で語っていた。芳一の背後にも、まわりにも、また墓という墓の上にも、たくさんの鬼火がさながら蝋燭のごとく燃えている。かつてこれほどの鬼火の大群が人間の目にふれたことはあるまい・・・。」
(平川祐弘訳 「骨董・怪談」河出書房新社 2014)

 展覧会の絵は、まさにこの場面を描いていたのだ。もしかしたら、小学生の図画のことだから、これを描いた子どもも、本の挿絵をそのまま模写しただけのものだったのかもしれない。ただし、気になるのはそこではなくて、この絵を描いた上級生は、自分たちの小学校のその隣の屋敷で、およそ70年前に「耳なし芳一」が書かれたことを知っていたのだろうか、ということなのである。
 この上級生と私が通っていた小学校は、新宿区立大久保小学校といって、平行に走る大久保通りと職安通りとの間に位置している。そして、八雲が、明治37年に54歳で亡くなるまでの最晩年の2年間を過ごしたのが、大久保小学校と隣接する屋敷であった。当時の住所は、豊多摩郡西大久保村仲通り265番地といい、実に800坪もの広さを誇る広大な敷地であったという。当時、小学生であったハーンの長男・小泉一雄は書いている。

 「大久保の家の北側、菜畑一つ隔てたかなた、春陽に陽炎立ち舞う辺に-小杉の植込の上に爛漫たる桜花の間から-見える平屋建ての長い瓦屋根は大久保村立尋常高等小学校でした。そこの校庭から眠いようなオルガンの音につれて、児童等の朗らかに歌う唱歌は『・・・進み出てたる一大隊・・・雪はますます深くして・・・八甲田山の麓原・・・』等の句が断片的に聞えて来ました。あの当時一大事件であった青森連隊の将卒雪中遭難の歌でした。」
(「父『八雲』を憶う」恒文社 1976)

画像1

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、1850年、嘉永3年に、ギリシャのイオニア海に浮かぶ小さな島レフカダで生まれた。父親はアイルランド人、母親はギリシャの人だった。その後、ハーンは、世界中を転々とする。アイルランド、フランス、イギリス、アメリカ、と、二十歳になる前だけでも、5か国で生活をした。その後も、西インドのフランス領マルティニークやニューヨーク、そして、カナダ、などで記者として働き、40歳を目前にして日本にやってきた。明治23年、英語教師として赴いた松江で、小泉セツと出会い、結婚をする。二人は、熊本、神戸と居を移したのち、明治29年に上京し、帝国大学つまり、のちの東京帝国大学で教鞭を取ることになる。その頃には、ハーンとセツの間には、長男・一雄と次男・巌に続いて、三男・清が生まれていた。

 大久保に移る前は、富久町に住んでいた。歩いてもおそらく15分くらいしか離れていないものの、富久町は、牛込区、というから東京府内であったが、当時の大久保村はあくまで東京府下、つまり東京の郊外であった。富久町では、ハーンは、自宅と隣接する「瘤寺」と呼ばれた自證院を愛していたというが、敷地内にあった古木が伐採されてしまったことに心を痛め、それが、大久保への転居を思い立たせたという。
 セツは書いている。、

 「ある時、いつものように瘤寺に散歩致しました。私も一緒に参りました。ヘルンが『おゝ、おゝ』と申しまして、びっくり驚きましたから、何かと思って、私も驚きました。大きい杉の樹が三本、切り倒されて居るのを見つめて居るのです。『何故、この樹切りました』『今このお寺、少し貧乏です。金欲しいのであろうと思います』『あゝ、何故私に申しません。少し金やる、むつかしくないです。私樹切るより如何に如何に喜ぶでした。この樹幾年、この山に生きるでしたろう、小さいあの芽から』と云って大層な失望でした。『今あの坊さん、少し嫌いとなりました。坊さん、金ない、気の毒です、しかしママさん、この樹もうもう可哀相なです』と、さも一大事のように、すごすごと寺の門を下りて宅に帰りました。書斎の椅子に腰をかけて、がっかりして居るのです。『私あの有様見ました、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るないとあなた頼み下され』と申していましたが、これからはお寺に余り参りませんでした。間もなく、老僧は他の寺に行かれ、代りの若い和尚さんになってからどしどし樹を切りました。それから、私共が移りましてから、樹がなくなり、墓がのけられ、貸家などが建ちまして、全く面目が変りました。ヘルンの云う静かな世界はとうとうこわれてしまいました。あの三本の杉の樹の倒されたのが、その始まりでした。」(小泉節子「思い出の記」第一書房 1927)

 そして、探し出したのが、富久町に隣接する村、大久保の敷地であり、ハーンにとっては初めての持ち家であった。もっとも、実際には、土地の名義はセツであったらしい。

 「淋しい田舎の、家の小さい、庭の広い、樹木の沢山ある屋敷に住みたいと兼々申していました。瘤寺がこんなになりましたから、私は方々捜させました。西大久保に売り屋敷がありました。全く日本風の家で、あたりに西洋風の家さえありませんでした。」
                                 (前掲書)

 確かに、その頃、明治35年当時の大久保は、ハーンが求めていたような、静かで淋しい郊外の寒村であった。山手線の新宿駅は明治18年に開設され、続いて、明治22年に甲武線大久保駅が開設された。甲武線というのは、今の中央線である。この敷設をきっかけとして、東京は西へ西へと広がっていくわけであるが、それでも、明治30年代の大久保はまだまだ、何もない田舎だった。国木田独歩や前田夕暮、水野葉舟などが集い、大久保が文士たちのユートピアとなるのは、明治40年前後からのことである。また、島崎藤村が大久保に移ってくるのは明治38年のことだから、ハーンがこの土地に住み始めたころは、文士たちもほとんどいなかったようだ。まさに、ハーンが望んだ、淋しい田舎の村だったのである。

 引っ越し当時のことを、節子は書いている。

 「西大久保に引移りましたのは、明治三十五年三月十九日でした。万事日本風に造りました。ヘルンは紙の障子が好きでしたが、ストーヴをたく室の障子はガラスに致しただけが、西洋風です。引移りました日、ヘルンは大喜びでした。書棚に書物を納めていますし、私は傍に手伝っていますと、富久町よりは家屋敷は広いのと、その頃の大久保は今よりずっと田舎でしたのとで、至って静かで、裏の竹籔で、鶯が頻りに囀っています。『如何に面白いと楽しいですね』と喜びました。」 (前掲書)

 それにしても、800坪というのは相当の広さを持った敷地である。ただ、大久保には、当時、前田侯爵邸、北大路男爵などといった、旧華族などの広大なお屋敷がいくつもあって、ハーンが移り住んだのも、板倉子爵のお屋敷であった。

 ハーンの死後、この家の一部を間借りしたのが、帝国大学での教え子で、英文学者の戸川秋骨である。「小泉先生の旧居にて」という随筆の中で、秋骨は書いている。

 「春の日の静かな午後などに、殆ど壁一重のお隣から小皷の音が鮮やかに聞えて来る。あの古皮の閑寂な調子は吾が独特のものである、何処の音楽でも、あれほどのさびのあるものはない。耳をすまして聞いて居ると、庭の桜の散って行くのもその音に動かされてかと思はれる程の静けさと寂しさがある。また一日の用をすまして、夕暮れ方に、寝室に身を横たへて居ると、これもお隣の座敷から、謡の声が響いてくる。謡といへば、いづれの曲も艶を消した、感情を抑へた、底力のある表白であるが、初夏の夕暮などに、その『夕顔』の曲などの聞えて来る時、夢とも現ともなく、『変性男子の願のまゝに……』といった声調の所謂艶にして又強味のある趣に、聞きとれて居ると、もう自分や修羅場の電車、停電を常とする電灯の東京に住んで居る事を忘れて、いつとはなく足利時代よりももっと古く、平安朝から王朝の昔にでも返して貰ったやうな気分になる。私は地獄の東京にも、今私の居るやうな閑寂な一角のある事を喜び、且それが小泉先生の家である事を誇りとして居る。」(「戸川秋骨 人物肖像集」みすず書房 2004)

 秋骨がこの家に間借りしていたのは、大正15年までの一時期のことだというが、現在の大久保からは想像もつかないほどの静寂さを見事に描き出している。秋骨は、大久保村に集っていた文士たちによる文学サロン「十日会」のひとりであり、転々としながらも、昭和の初めまで大久保に住んでいた。

画像2

 さて、大久保に移り住んできた時、ハーンは51歳、節子はまだ33歳であった。現代の私たちからしてみれば、まだまだ老け込むような年齢でもないが、引っ越しの作業をしているそのさなかに、窓辺に飛んできて鳴く鶯に節子が喜んでいると、ハーンは、こう言ったという。

 「『なんぼう可愛いの鳥、しかしあの声を私この家で三春以上聴くことが出来るでしょうか?むずかしいでしょう』」(「思い出の記」小泉一雄 1976 恒文社)

 実は、大久保に引っ越してきた翌年、ハーンは、東京帝国大学の教職を失った。解雇されたのである。ハーンに代わって英文学の教師を任せられたのは、夏目漱石であり、上田敏であった。帝大では、信望の篤いハーンの留任を求めて、学生たちの運動まで起きていたが、結局、ハーンが帝大に残ることはなかった。ハーンは、自らの留任をめぐって、文科大学長の井上哲次郎とも、ぎくしゃくとした人間関係に陥っている。
 当時の、悩めるハーンの姿を描いているのが、誰あろう、漱石である。

。「赤門をはいって、二人《ふたり》で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲《こいずみやくも》先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、
『そりゃあたりまえださ。第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない』と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた。」
                            (夏目漱石「三四郎」)

 ハーンが、教員控室に寄りつかなかったのはどうも事実らしいが、漱石が書いているように、他の教員のレベルが低すぎて、ということでは、必ずしもないようだ。井上哲次郎によれば、ハーンは猜疑心が強く、当時、来日し、帝大を視察した、ケンブリッジ大学の女子教員養成校の校長であったエリザベス・ヒューズが、キリスト教会のスパイではないかと疑っていただけではなく、帝大の同僚である外国人教師にも猜疑心を抱き、「『どうも同僚が宗教的同盟を作って余を排斥して居る。』」(井上哲次郎「懐旧録」春秋社松柏館 1943)と述べたと書き、それで孤立を深めて教員室に近づかなくなったようだが、ハーンを排斥しようとか、そのような事実はない、と続けている。さらに、

 「そのような極端な解消すべからざる猜疑の念を抱くいふやうなことは、到底普通人には有りさうもないことである。これによって小泉氏の常軌を逸した精神的傾向の如何は推知し得らるるのではなからうかと思ふ。」(前掲書)

 ハーンは、神道や仏教など、日本の宗教への傾倒を深めており、そのことで、キリスト教に対する不信感のようなものが生まれていたのでは、というのが、井上の考え方だ。もちろん、留任運動まで起きたハーン騒動に対する井上の言い訳のようでもあり、何が本当かはわからないとはいえ、すでに人生の最期に近づいていたハーンが、さまざまなことに過敏に反応し、疑心暗鬼におちいっていたことは間違いないようだ。
 そう、大久保に転居したハーンには、死が近づいており、そのことをどこかで自覚していたような節がある。そして、自らの死を目の前にして書き上げたのが、「耳なし芳一」を含む「怪談」なのである。

 ハーンは、日本での14年間の生活を通して、おびただしい著作を残しているが、大久保小学校で私が目にした絵の題材「耳なし芳一」を含む「怪談」などを、この大久保の住居で書き残した。特に、芳一の話は、ハーンのお気に入りだったようで、節子は次のように書いている。

 「『怪談』の初めにある芳一の話は大層ヘルンの気に入った話でございます。中々苦心致しまして、もとは短い物であったのをあんなに致しました。『門を開け』と武士が呼ぶところでも『門を開け』では強味がないと云うので、色々考えて『開門』と致しました。この「耳なし芳一」を書いています時の事でした。日が暮れてもランプをつけていません。私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一芳一と呼んで見ました。『はい、私は盲目です、あなたはどなたでございますか』と内から云って、それで黙って居るのでございます。いつも、こんな調子で、何か書いて居る時には、その事ばかりに夢中になっていました。又この時分私は外出したおみやげに、盲法師の琵琶を弾じて居る博多人形を買って帰りまして、そっと知らぬ顔で、机の上に置きますと、ヘルンはそれを見ると直ぐ『やあ、芳一』と云って、待って居る人にでも遇ったと云う風で大喜びでございました。それから書斎の竹籔で、夜、笹の葉ずれがサラサラと致しますと『あれ、平家が亡びて行きます』とか、風の音を聞いて『壇の浦の波の音です』と真面目に耳をすましていました。」(前掲書)
 
 滅びゆく平家の姿を描きながら、ハーンの体もすこしずつ病に蝕まれていく。大久保での晩年は、そんな時間であったようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?