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1964年のはかま満緒①

 1993年、つまり、平成3年に、日本テレビ開局40周年ドラマとして放映された「ゴールデンボーイズ 1960笑売人ブルース」はちょっとした驚きであった。この作品は、市川森一の脚本による青春群像ドラマなのだが、誰の青春を描いていたかというと、放送作家はかま満緒のもとに集まる若い芸人たちで、例えば、コント55号結成前夜の萩本欽一や、コントラッキー7結成前のポール牧、そして、はかま満緒のもとでコント作家の修行をしていた市川森一自身なのだ。そして、何に驚いたのかというと、はかま満緒の自宅というのが、1960年代半ばの新大久保だったということである。つまり、ちょうど私が生まれたその頃、同じ新大久保の一角では、間もなく世の中を席巻することになる芸人たちが集まり、毎日、ギャグの腕を磨いていたというのだ。
 ドラマの配役がまた豪華だったのも、ちょっとした話題になったと思う。はかま満緒を演じるのは三宅裕司、市川森一には仲村トオル、そして、若き日の萩本欽一に小堺一機、坂上二郎を片岡鶴太郎、コントラッキー7の関武志にビートたけし、ポール牧を陣内孝則、また、伝説のコメディアン泉和助には堺正章、といった布陣だったのだ。かなりの制作費を注ぎ込んだという。
 はかま満緒の名前は、以前から知っていた。中学生の頃だったと思うが、当時聴いていたラジオ番組のパーソナリティがはかま満緒だったのだが、実のところ、当時は、何をしている人なのかは知らなかった。コメディアンでもなさそうだし、アナウンサーとも違う、何者なんだろうな、という思いをもちながら、それでも、深くは考えずに聴いていたのである。そのはかま満緒が、実は、大久保に住み、多くのコメディアンを育てたということを知り、驚いたのである。

 ドラマは、1964年、昭和39年に始まる。東京オリンピックが開催されたその年である。駆け出しの脚本家・市川森一が、新大久保のはかま満緒宅につれてこられる。ふとしたことで知り合った売れない作曲家・青木に大久保の自宅に誘われるのだが、その借家を青木と分け合っていたの
が、放送作家のはかま満緒であった。ちなみに、青木の役は、奥田瑛二が演じている。市川は、その借家に出入りするうち、いつの間にか、はかまの弟子となってしまう。
 はかま満緒は昭和12年生まれで、この当時は、27歳ほどだったということになる。大学を中退してテレビ局に入り、その後、フリーの放送作家となり、すでに放送作家として華々しく活躍していた。先代の林家三平のお抱え作家として、ギャグを考えていたこともあるという。そして、ほどなくして、「シャボン玉ホリデー」の構成にも関わるようになるという時期であった。
 伝説的なバラエティショーとしてあまりに有名な「シャボン玉ホリデー」は、昭和36年6月に、日本テレビで放映が開始されている。番組は、生放送だった。そして、ザ・ピーナッツやクレイジーキャッツが、この番組でスターダムにのし上がった。実際、この年の8月に、クレイジーの植木等が歌う「スーダラ節」が発売され、大ヒットする。クレイジーは、一気にお茶の間のスターとなったのである。植木等の、「お呼びでない?これまた失礼いたしました」といったあのギャグもこの番組から生まれたものである。
 そして、「スーダラ節」の歌詞を書いていたのが、「シャボン玉ホリデー」の放送作家でもあった青島幸男であった。青島幸男は、放送作家というだけでなく、自ら番組のコントにも参加し、顔を売っていた。それは、他の放送作家、例えば、前田武彦やはかま満緒も同じで、放送作家としてコントを作り、一方で、自ら演じていたのである。いわば、マルチタレントのはしりであった。
 このあたりの事情について、「テレビが産声をあげた時」という文章の中で、はかま満緒は書いている。

 「なぜ、私や青島が番組に出たのかというと、クレイジーキャッツに、突っ込みがいなかったからなのだ。突っ込める人がいない。それともう一つの理由は、メンバーそれぞれが忙しくて、ニュースを見たり新聞を読んだりする時間がなかった。番組では時事的なネタを扱うことが多かったが、せっかく作っても、その事件を知らないということになると困るのだ。だから、知らない事件があると、放送作家が全部ネタをふる。そこにとんでもねえヤツがでてくるという形をとった。そういう、ネタフリと突っ込みを放送作家が演じた。例えばドリフターズの場合だと、いかりや長介が突っ込みでああとは全部ボケ。ところが、クレージーキャッツは全部ボケなのだ。だから必然的に、青島幸男や私が出た。
 テレビの黎明期に、放送作家がよく画面に出たのは、そんな事情があったのだ。」
      (NHK出版「テレビ作家たちの50年」所収 2009)

 テレビ放送が開始された昭和28年には、わずか1500だったテレビの受信契約者数は、昭和36年には、実に1000万に達していた。全世帯のほぼ半数がテレビを持っているという時代に入っていたのだ。昭和28年というのは、プロレスラー力道山がデビューした年である。シャープ兄弟との試合も、「昭和巌流島」と呼ばれた柔道王・木村政雄との死闘も、国民の多くは、その勇姿を街頭テレビで見ていたのだ。それから10年近くが経ち、街頭テレビの時代は終りを迎え、テレビは、一家に一台という時代に入りつつあった。昭和33年には、長嶋茂雄が巨人軍に入団し、昭和34年には皇太子の結婚パレードが華々しく行われた。昭和39年には東京オリンピックを控え、それを機にカラー放送も始まった。そんな時代の中で、テレビは、新しいエンターテインメントの王様として、世の中に浸透していったのである。テレビ画面にも登場する放送作家たちが、業界の花形となっていたというのも当然といえば当然のことであった。
 ただ、繰り返すが、昭和39年当時は、はかま満緒はまだ「シャボン玉ホリデー」には関わっていない。放送開始当時は、前田武彦や青島幸男らが主に番組を書いており、はかま満緒らのグループが番組に関わるようになったのは放送開始から数年たってからのことだというから、昭和40年頃からだろう。

 さて、時代の寵児であったはかま満緒の自宅が、その当時、大久保にあって、日夜若い芸人や放送作家たちが出入りし、新しいコントやギャグを続々と生み出していたというわけだ。何しろ、テレビは黄金期を迎え、仕事は次から次へと入ってくる。その勢いに負けじと生産し続けないといけない。そんな現場に、若き日の市川森一が放り込まれたわけだ。
 はかま満緒邸は、どこにあったのか。はかま邸に出入りしていた頃から25年後、市川森一は、大久保を再訪している。

 「新大久保は激しく変わっていた。蔦のへばりつく、遺跡のような古い教会が、唯一の手がかりである。
 この教会の角を曲がり、少し歩いたところに、”はかま満緒宅”があったのだ。」
           (石村博子「東京伝説」毎日新聞社 1993)   

 蔦のへばりつく遺跡のような古い教会というのは、大久保通り沿いに建つルーテル教会のことである。
 ルーテル、というのは、宗教改革で知られるマルチン・ルターのことで、つまりは、プロテスタントであるルター派の教団、ということである。大久保のこの教会の正式名称は、東京福音ルーテル教会という。「新宿区の民俗 淀橋地区篇」(新宿歴史博物館 2005)によれば、明治26年に米国ルーテル教会が佐賀で伝道を始め、その後、大正10年に、東大久保に教会を作った。ところが、関東大震災での被害を受けたこともあり、大正12年に現在の土地で牧師館が建てられ、間もなく教会学校が始まったという。  
 市川の言う「蔦のへばりつく」教会は、昭和3年に建設された。大久保で初めて建築された鉄筋コンクリートの二階建てであったといい、塔屋の十字架は、実に五階建ての高さにまで達していた。まるでヨーロッパのロマネスク様式の教会のようで、その壁面には、市川が書いているように、寸分の隙間もないほどの蔦が伸びており、ほとんどホラー映画に登場する古城のごとき趣があった。大久保のランドマークだったといっていいほど、それは印象的な建築であった。
 昭和4年には、教会付属の幼稚園として、恵泉幼稚園が開園する。
 老朽化のためにルーテル教会は平成8年に建て替えられ、残念なことに、今では、現代的な意匠の建築物に変わってしまった。市川森一がこの界隈を訪れたのが、改築の3年ほど前のことだから、まだ、古い教会が残っていたのである。

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 はかまの家は、このルーテル教会を曲がって奥へ行ったところにあったという。このあたりに、恵泉幼稚園の分園もあり、小さな園舎と、こぢんまりとした園庭があった。実は、私自身、この、恵泉幼稚園に通う園児であったので、この園庭では毎日のように遊んでいた記憶がある。その頃、この園庭のすぐ近くにはかま宅があって、おそらく、ほとんど時を同じくして、若き日の萩本欽一や市川森一らが出入りしていたということになる。

 さて、市川森一は、昭和39年当時、22歳。同じ新宿区内の若松町に住んでいた。脚本家志望であったというのに、はかま宅に集まる連中の仲間入りをすることになり、コントを作らされるはめになってしまう。市川を含む弟子たちは、「はかま満緒とギャグフレッシュメン」と名づけられ、ルネサンス期の画家の工房よろしく、はかまの仕事を分業して仕上げていったという。弟子たちは、それぞれ自分の仕事を終えてから、毎晩のように大久保に通っていたのである。

 市川は語っている。

 「月給は2万5000円。本当はドラマをやりたいんだけど、まあいいか。お金ももらえるし、これもムダにはならないだろう。」(前掲書)

 「値段の明治大正昭和風俗史 続」(朝日新聞出版局 1981)によれば、昭和39年当時の公務員の初任給は1万9100円であったというから、2万5000円というのは、相当の金額である。何人も抱えていた弟子たちに、それだけの給料が払えたということに驚かされる。放送作家としてのはかま満緒の売れっ子ぶりと、当時のテレビ業界の隆盛ぶりが想像できるというものだ。青島幸男は、月に2000枚書いていたという。
 小林信彦は、この時代を「テレビの黄金時代」と呼んでいる。

 「ごく大ざっぱながら、それは『若い季節』『夢であいましょう』『シャボン玉ホリデー」、TBSの警視庁ドラマ『七人の刑事』が始まった一九六一年、あるいは、これらに『てなもんや三度笠』(朝日放送)が加わった一九六二年あたりを始まりとするのが妥当と考えられる。(中略)
 〈黄金時代〉の終りはいつかと考えると、一九七二、三年、と考えてよいと思われる。」  (小林信彦「テレビの黄金時代」文藝春秋 2005)

 1961年というのは昭和36年、1972年は昭和47年、ほぼこの10年間がテレビの黄金時代だったというわけだ。ちなみに、昭和47年は、「シャボン玉ホリー」の放送が終わった年である。 
 
 「『おまえ、何かほら、言ってごらん。何が面白いの、どこが面白いの』
 せっかく苦労して作った話は、ばっさり作り変えられる。皆、悔し涙をため、脂汗を流しながら、『笑い』にぶつかっていった。新しい笑いの形を、必死で探った。落語でもない、浅草喜劇でもない、テレビにふさわしい笑いとは何?」 (「東京伝説」)

 まさに、毎日、真剣勝負で、テレビの「笑い」に向き合っていた日々だったのだ。

 また、時期を同じくして、萩本欽一も、はかま宅に連れてこられる。誘ったのは、向井というテレビマンであり、萩本の才能を見抜き、テレビの世界に連れ込もうとしていたのだ。ドラマでこの向井を演じているのは西田敏行である。当時、萩本欽一は、世間的にはほとんど無名であった。コント55号もまだ結成していない。
 昭和33年に高校を卒業してから間もなく、萩本欽一は、浅草の東洋劇場に入っている。当時、浅草は、喜劇の町としての全盛期の終盤を迎えていた。有名なフランス座は、ストリップ劇場として昭和26年に始まっており、ストリップショーだけでなく、喜劇も上演されていた。フランス座のコント作家だった井上ひさしは語っている。

 「一時間半のショーに、一時間の喜劇がつくのが基本の型でした。はたらいている人たちの構成はまず、二十四人の踊り子、二人の男性舞踊手、六人編成の楽団、そして喜劇俳優が十人前後というところ。」
   (「浅草フランス座の時間」文藝春秋 2001)


 ストリップばかりだと、舞台構成にメリハリがない。客が飽きてしまう。そこで、喜劇をはさんでいたのだという。渥美清を始めとして、多くの喜劇俳優、コメディアンが出演していた。若き日のビートたけしもそのひとりだ。
 昭和34年にフランス座が5階建てのビルに新築された時、階上をフランス座、階下を東洋劇場とした。萩本欽一は、ちょうど、そのタイミングで東洋劇場に入った。そして、昭和38年、22歳の時に自分の劇団を作って活動をしていた頃に、向井から声がかかったのである。 

 自伝の中で、萩本欽一は書いている。

 「あるとき、劇団の楽屋を訪ねてきた人がいます。TBSテレビのディレクター、向井さんでした。向井さんは、僕たちの芝居を旗揚げ公園から見ていて、ペンネームで、『キネマ旬報』に劇評まで書いてくれたそうです。それなら知ってました。初めて自分のんことが書かれた記事だったし、ほめてくれてたんで、それを書いた人が訪ねてくれただけでもありがたいのに、向井さんはこんなことを言うんです。
『テレビにでてみませんか?』」   
     (「萩本欽一自伝 なんでそーなるの!」(日本文芸社 2007)

 ドラマの中では、向井はこう言って、萩本を誘っている。

 「『生憎だが今日は芝居の話じゃないの。欽ちゃんをテレビに引っ張りこみに来たんだけど、のる?』」                    (「市川森一ノスタルジックドラマ集」映人社 1993)


 はかまも、萩本の才能は、テレビ向きだと判断したひとりだった。

 「まずラジオ番組に出演させられたが、アクションのないラジオには向かないと見たはかまは、『以降、テレビ以外には出るな』と命じた。」
         (はかま満緒「放送史探検」朝日新聞社 1995)

 市川森一は、はかま邸で、萩本欽一に出会い、自分と同世代なのにすごいやつだ、と、その才能に舌を巻いたという。


 はかま邸に出入りする若者たちの中には、その後、萩本欽一を支える作家集団「パジャマ党」を結成することとなる、大岩賞介などもいた。
 
 ドラマで、伝説のコメディアン泉和助が、二階からゆっくりと落ちていくという「スローモーション落ち」を披露する。廂、電話線、木、などを巧みにつかみながら、あたかも、映画のスローモーションのように地面に落ちていくというものだ。このギャグを模倣しようとした萩本が、巡回中の警官にとがめられ、大久保の路地を逃げていく場面も登場する。

                              つづく

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