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看護師になった話

私は、無名のnote書き、「厄介なつき」になるまでの間、えんえんと転職を繰り返し、さまざまな経験をした。

そのうちのひとつ、看護師になった話をしよう。


18歳の時、進路相談もろくにしなかった。


面倒くさくて、息苦しい将来なんて、金さえ確実に稼げればなんでもよかった。
それ以外のことは正直、どうでもよかった。


私には、看護師として働き、小型犬を飼い、キャッシュで買った車を転がし、独身貴族を漂わす歳の離れた種違いの姉がいる。

そんな姉が、自由で強い女に見えた。

経済的に余裕のない家庭で育った私は、自立した女になり、自由になりたかった。

経済的に余裕がある、社会的にマトモな大人に強くあこがれた。

偶然ネットで見かけた、椎名林檎のヒットナンバー「本能」のPV。
その白衣姿に強く惹きつけられたこと。

単純にやりたいことも目的もなく、また自分には大学に行くほどの金も学力もなかったこと。

看護学校なら、奨学金制度が使えて貧乏でもお得に、確実に社会人に近づけること。

そういった、よくある理由で高校生の私はあっさりと看護学校入学を決めた。

大学に向けてセンター入試を受けるため、勉学に励むクラスメイトを横目に、ただひとり、専門学校受験を済ませ、卒業を待った。

入学してしまえば3年我慢してすぐ金を稼げるようになる。

それだけを目標に、既に小さなストレスを感じ取りながらも、高校卒業とともにギュッと目を瞑って新しい道に飛び込んだ。


私が通ったのは、地元にあるさびれた看護の専門学校で、三年過程。目を瞑って飛び込んだら、これが相当きつかった。
後にも先にも、あんなにストレスにさらされた3年間はほかにないと思う。

不安と寝不足と窮屈さに、もともとないメンタルを揺さぶられ続けた3年間であった。

以下、「人生で自分が最も向かないこと」を無理やり詰め込み、最も向かないことを生業としてきてしまった私のささやかな記録とする。

自分でお金を稼ぎ自立した女性、独身貴族になりたいといった漠然とした憧れはあった。

学校に入ればなんとかなる、という周りの言葉を素直に信じていた私は「看護師」という社会的に認められているような響きにドキドキしながら入学し、2日ともたず絶望した。

感想は「来るところを間違えた」である。

一応説明しておくが、看護師という職業は、病気や怪我、出産時などにある人様の世話をしつつ医療に携わり、医師の補助もする仕事である。

ゆりかごから墓場までその仕事の幅、活躍の幅は広い。需要も多く、人手不足が叫ばれる現代の日本では、就職にめっぽう強い国家資格のひとつでもある。

実際、就職にも転職にも一度たりとも困らなかった。看護師の仕事をしている間は、一応、一人暮らしでも必要最低限の生活を送ることができた。
家賃も、税金も滞りなく支払うことができた。
どこに行っても、「看護師」というだけでローン審査も通った。

そのようなきちんとした、世間受けも最強に良い仕事である看護師だが、私は昔から、人と関わって何かを成し遂げることが苦痛であった。
1人で漫画や音楽漬けで自分時間をマイペースに過ごすことを心情としていた。

プライベートでも、自他ともに認める自堕落かつオタク気質な人間だったため、人様の世話や組織に貢献することなどには向いているわけがなかった。


「世話」に関していえば、飼育委員会を託された子ども時代があった。
夏休みに飼育小屋のドアを開けっ放しで帰宅し、多くの鳥達を解き放ち、通った小学校にささやかな損失をもたらした、それぐらいの残念さである。

看護学校というところには、学校というだけあって、「先生」がもちろんいる。

先生、の全員が、看護師資格や保健師資格、ケアマネ資格などを持つ現場経験のある者が看護師育成の師として君臨している。

その上、机上でも何も知識のない学生にスキルや知識を教えるのだから、今思えばあの人たちというのは本当に貴重な担い手なのだなと思う。

皆、どの師も厳しくも愛情深い優しい先生方であった。いわば、「白衣の天使のお母さん」みたいな人たちである。

私の通った学校が偶然そうだっただけかもしれないが、本当に恵まれた環境にいたと今は思っている。

学生生活では、友達はそこそこできたが、勉強にはなかなか身が入らなかった。


座学になると眠たくなり、ウトウトと船を漕いでみっちり詰まった講義の数々についていけなかった。テストでも実技でも、看護学校において完璧な劣等生であった、と振り返っている。

自宅や放課後の過ごし方としては、暇さえあればライブや漫画、「ごっつええ感じ」に費やし、彼氏を作って依存してみたり、クラブに遊びに行ったり、とにかくずっと現実逃避していた。

知れば知るほどどうしても看護へのやる気も続かず、全員が看護師志望というだけあって、周りがしっかり者に見えて辛かった(実際に皆、本当にしっかり者であった)。

とにかく要領の悪い私は、失敗が続くデモンストレーションも、延々と続く眠たい座学も、バス通いも女社会の学校も、その頃全ての出来事が苦痛だった。

挙げ句の果てには、毎日、「退学届」を持って通う日々であった。

ある日の昼休みに、退屈さと窮屈さに悶え苦しんだ私は、親に突然「もうこれ以上、がんばれないから今日で辞める。お金は返すから、フリーターになって好きなことをする」と学校から電話で伝え、退学届を提出した。

その日のうちに、すぐさま母が学校に押しかけてきて、「借金までしたのだから、今更なにをいうのか、無事に卒業して働けるようにならないと苦労するのは目に見えている。年老いた親を裏切ってくれるな」等々、えんえんと泣かれてしまった。

先生には「親御さんがそういうんだから…がんばりましょう、明日も来るんですよ…資格を取るまでは私達も応援していますよ」といった具合に、私の退学は全面阻止された。

無事に、いち看護師として卒業するまで、ここに通わなくてはならない。自主退学が認められない。

実家から通っていた私は、とにかく八方塞がりになり、どこにも逃げられない事態となって、ますます辛さに耐えられず、ライブハウスやクラブ通い(と彼氏への依存)がやめられなくなった。

泣く泣く学校は続け、2年生から3年生の終わりまで、ずっと不安定だった。
借りた金、400万を返せるまで看護師を続けられるのかも、不安だった。
(お礼奉公制度なので3年働けばチャラ、のシステム)

教室の奥で、このままうっかり社会に出ることを思うと本気で毎日がやるせなかった。


「デモンストレーション」とよばれる実技演習以外は、ほぼほぼ、睡眠に充てていたのではないかと思う。座ると眠たくなるのは辛い。

そんな私がノートに書いていたのは、ミミズのような点や線だけである。
ミミズののったくった字、というが本気でうまい表現だなと今でも思う。

ミミズのノートで、どうやって卒業できたか、正直あまり記憶がないのでそこも周りに助けてもらってなんとか無事に卒業したのであろう。

私本人の意思とは裏腹に、はたからみたらおめでたい人生だと思う。

演習では、一年生のうちから、現場で使う技術を習い、実践する。

ベッドメイキング、採血、全身清拭(入浴できない患者の体を拭くこと)、ベッド上での洗髪、などなどとにかく盛りだくさんで、忙しい日々であったことは間違いない。

その上、その度に実技テストもあるのだから元来そう器用ではない、むしろ不器用の代表のような私がこなすのは本気で毎日戦いの連続だった。

2年生に入り、実習とよばれる実際に稼働している病院での学習はもっと忙しく、指導に入る先生達の熱もあがる。
学生達への服装、態度、健康状態に至るまで細かいチェックが入る。

病院内に外から来る学生が病原菌を持ち込んではいけないので、ワクチン歴から確認される。

実習には、1病棟に5〜6人の学生グループで入る、というシステムであった。

もちろん風邪やインフルエンザなど患った日には実習は即中止となり、最悪の場合、グループから外れ1人ぼっちで別の週に再実習となる。

看護師や医師、そして本物の病人しかいない現場に、たったの一人きりである。

心細いったらありゃしないもう帰りたい怖い、そういう心境になる。

恐ろしい1人ぼっちの再実習、なんとかそれだけは避けたい…劣等生の私は、心から恐れた。
全部一回で終わらせる、一人きりの再実習なんか絶対にごめんだ。
そう誓ってやるせない日々をいさめた。

病院にいる、本物の看護師というのは、分刻み秒刻みの状況で何人もの患者をケアしている。

今なら分かるが、現場は人不足も抱えており、そこに無資格の使えない学生が入るとなれば、正直、邪魔でしかない。

学習のための実習だが、今は新型コロナウイルスの影響で、現場を知らずに看護師一年目を迎える学生も多いことだろう。なんとも辛い時代である。

下手に無計画なケアを立てたり、学生1人での勝手な判断でのケアは許されない。

自分で学習してきた、ケアの根拠とケアにかける時間、患者の身体状況、治療状況に至るまで様々な情報を把握して、さらに当日の条件が揃っていなければ実践には入らせてもらえない。

実践に入るにも、とにかく根拠を問われる。

「なぜ、それが必要なのか」「なぜ、これを取り入れるのか」「なぜ、便の状態を見るのか」
そんな感じで問われまくる。

答えられなかったら学習不足、ということで「何やってたの?もう勝手にしなさい」
そういった具合に、もう何もさせてもらえない。

ただそこで、いたたまれなく行き場もなく、時間を潰すだけである。なんとも居心地の悪い時間を過ごさなければならない。

忙しなく動く、忙しいナースのいる、ただでさえ狭いナースステーションの脇でひたすら邪魔になる。

一応の白衣を着た、よく分からない存在と化するだけである。

実習ではとにかく根拠を学び、記録として残し受け持ち患者が決まったら、その人の病態、検査、治療まで学習する。

その日の振り返りをする、計画を立案する。

看護師の指導を受けながら実践にうつす。

その繰り返しである。

その日やることの計画、受け持ち患者の病態から関連図とよばれる記録物、さらに1日目からその日の記録を更新して書く。

記録で眠れないのは、睡眠命の私にとっては本当にしんどい日々であった。

根拠と計画さえきちんと把握していれば、翌朝の時間のないナースに「こういう状況なので、今日はこれをこうします。」等、シンプルに伝えて実習に入れる。

不安を言葉にできない、マスク越しのナースの目に怯えてばかりの当時の私には、実習は生き地獄でしかなかった。

何をどうやっても、勉強すればするほど不安で眠れなかった。

分からない、みえない、突っ込まれたらどう答えたらいいのだろう。勉強して頭では分かっていても、緊張とナースの言動の一つ一つがどうしても恐ろしく、言葉が言葉にならず、うまく話せなかったし、説明すらできなかった。

その不安で、実習中はほとんど無駄に泣いてばかりいたように思う。

眠っていないと余計に不安定になりやすくなるので、よく泣いていたうえに、私は疲れ切っていた。

まだ若かった私にとって、1日2時間〜3時間の睡眠で足りるわけがない。

怒りっぽく、疲れ切って判断力が落ちて自分が何を言ってるかも分からなかった。現場の看護師さんに怒られる負のループが続いた。

睡眠不足とは恐ろしいものである。
恐るべし看護学校時代。

ちなみに、当時のクラス文集で「実習中、自殺しそうだった人ランキング」では2位であった。

なかなかのランクインである。
自他共に認める、「自殺しそうだった人」であった。しみじみと卒業式でも泣いた。

ちなみに、「自殺しそうだった人」一位のAさんは、准看護師経験者として入学し正看護師を目指して同じクラスにいた。

現在は、バリバリ看護師として活躍しているらしく、一緒に頑張った者として拍手したい思いである。学校で久しぶりに会うと、2人で泣きながら今の恐ろしい実習の状況を報告しあったものである。

国家試験においては、私は早々とマークシート形式の解答を済ませ、午後の試験中には睡眠をとって過ごした。
試験官もなめられたものである。

周りのクラスメイトのサポートがあったのと、繰り返しクラスメイト達とやり続けた過去問題のヤマが当たり、私の意思とは逆に、しっかり試験に通ってしまい、2011年の春に、看護師資格を得た。

感想は「受かってしまった。私の人生はこれからもきっと辛いし苦しい。でも人並みに金は稼げるのは嬉しい」。

正直、試験に通って、今後やるべきことが決まってしまったことが心から悲しかった。

しかし、奨学金約400万の一括返済はまぬがれた、という安堵感があった。

フリーターになって、ビレッジヴァンガードの店員になろう、今からでも遅くない…そう思った矢先、奨学金をあてにした自分をひどく悔やんだ。

3年間は、また辞めることができないのである。

私はその後、借金分だけは気合いでまたクサクサしながら、新卒で就職した病院を3年かけて乗り切った。お礼奉公制度は辛かった。長かった。

2014年に金を返す、その任務をやり遂げた。
そのあとは、自由を謳歌してプライベートの充実に身を捧げ、組織で働く時間を大きく減らして生活している。

おいおい、就職してからの私の残念な話は、また書いていきたいと思っているので割愛する。

看護学生、また看護師を目指している人達には社会に出るまでは頑張ってみてもいいかもよ、といいたいが、同時に、別に向いてないと思ったら、やめてもいいんだよ、とも言いたい。
なるべく決めるのは早い方が良い。

「お礼奉公制度」は、数年、人を縛るシステムなのでその制度にもし、ありつくならば、数年は働く覚悟を持って挑戦すれば良い。

資格があると、そちらに縛られてなかなか新しい道に行ききらない。これは看護師を辞めて他の道に進んでみた私の実感である。

これだと思ったことは、なるべく「楽しい」を切り口に、なんでもやってみて、知って体験しておくべきだと思う。

若くて何も知らない、というのはやはり面白いし、何より様々に可能性がある。

不器用の代表のわたしがなれたし、その後もなんとかやってこられたのだから、大丈夫だよ、と一応それも言っておこう。

リアルなことをお伝えするとすれば、とにかく資格さえとれればこっちのもんである。

正直、転職がスムーズに行くのはとても心強い。

問題は、現場に入ってからその日を無事にやり遂げられるかどうか、のほうである。
健康に日々を過ごせるか、続けられるか。
心と身体はついていけてるか。

現場に入ってみて、やめたかったら、やめる準備をしてさっさと辞めて新しい道を探せばいいのだ。

辞めさせてくれない職場、というのは「患者さんのために」を押し付けて、時間で人を縛る悪習なので、相手にしてはいけない。

「走って逃げる」ことを悪とするなら、誰も走って逃げないよう、処遇改善に努めるのが会社の勤めなのだから。処遇も、自分のやりがいも搾取されるなら走って逃げろといいたい。

もし、看護師をやってみて自分が健康を晒されたら要注意である。生活でパートナーや夫、誰かにサポートが得られるなら、そうするのが一番いい。

疲れたら休み、病んだら一旦立ち止まる。
また稼がなくてはいけなくなったら、働き方を変えて頑張ってみたり、場合によっては生活保護を受けて次の一手を考えてみればそれでいい。

1人で頑張ってはいけない。

鬱を甘くみてはいけない。

体が動いても、心がついていかない仕事はするべきじゃない。

それが看護師になってみて日々実感する、私のシンプルな感想である。

やってみたから言えることだけれど、尊い仕事で、自立、自活もできるがやはり夜勤手当ては命を削った代償である。

看護学校の辛さに比べたら、社会に出てからの辛さなんて走って逃げられる。

特に、借金が無いのなら、3年も我慢しなくても経験はあちこちで積めるのだし、石の上に3年もいなくていい。

せいぜい大きな病院に一年いて、採血、血圧測定、観察のポイントを押さえて患者をみることができれば十分やれる仕事はある。

もちろん、組織で働くことが苦痛でなく、体力に自信のある方はぜひ頑張ってみたらいいと思う。

手持ちの札は多い方がいい。

なんにしても、自分を知り、人と出会い、自分を育てることに時間を使えるほうに舵をきれれば、なんとかなるもんである。

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