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日陰


22歳の私がした選択は、中絶だった。

2人でしたことは、未熟さゆえだった。

当時、病棟のフルタイム看護師をしていた私には、家に帰ると時々遊びにきている2つ年上の彼の存在だけが全てだった。


若くて、未熟で、それでも自分が働いて2人でなんとか暮らせるのなら、そのままずっと一緒にいたいぐらいに好きだった。


中卒で早くから社会に出て、早く大人になりすぎたせいか冷ややかな目をした、一重の目。

夜な夜な映画を観すぎて、海外かぶれの甘い台詞が得意なところも、私の安っぽい手料理でも残さず食べてくれるところも好きだった。

それほど愛した男でも、片方に寄せる愛が強過ぎると押し付けがましいものとなり、いずれ煙たくなって避けられるもので、いつの日からか彼は家に来なくなった。

私の誕生日の真夜中、もしかしたら来るかもしれない彼を待って眠れなかった。もう、長らく会いに来ることもなかったというのに。


翌朝は8時前から仕事だったけど、いつまでも眠れず電気をつけてベッドに座る。
私は、とても惨めで、弱くて、いつまでも彼の存在に依存していた。
それだけが、辛くてもお金が貯まらなくても、しんどい日々にも仕事を続けられている、じゅうぶんな理由だった。

午前過ぎ、これもらったんだよね、とカートンのセブンスターと可愛らしいラッピングを施されたいくつかのプレゼントを持ち帰り、ようやく彼は家に来た。

カートンのタバコは、また今度来るからと言って私の殺風景な部屋に置いて帰られた。

その数ヶ月後には、彼の続く浮気に耐えられなかった私は、未練がましく一通り泣いたり怒ったりもして、疲れ果てて自分から別れを告げた。

少ない荷物とカートンを取りに来た彼は、寂しくなるね、とだけつぶやいて去っていった。

あのセブンスターは、新しい彼女から贈られたものだったと後で気づいてしばらくはやりきれなかった。

若く未熟な私は、そんな弱い自分が嫌いで惨めで、いつもどうしてか息苦しかった。

そんな折、体調の悪さと気持ち悪さに気づき、生理が遅れていることに気づいた。

薬局で、無意味にスナック菓子とガムを買い、妊娠検査薬も一緒に買う。

薄ピンクにパッケージされた検査薬は中に2本入っていて、2回検査できることはこの時まで全然知らなかった。
やだな、リアルな感じ。やめてよねーなんて思いながら、どことなく気持ち悪さが続くことに不安を覚えていた。

トイレに行くタイミングで、早めに検査だけはしておこう。

まさか…そんなことあるわけないよね
あったら困る。今じゃない。
私には人生を1人で過ごす権利がある。
今は何も買えやしないけど、贅沢に一人旅して、好きな服を買って、いつかは誰かの愛しい人になる、そういう権利が、まだきっと私にもある…

震える手で尿をかけ、こわごわ視線を落とすと、小さな一本の検査薬の窓にピンクの縦の線が滲んでいた。

私の、小さな絶望はとっくに始まっていた。


恐る恐る1人で出向いた産婦人科で、妊娠を告げられてから1週間の猶予が与えられた。

妊娠6,7週に入ったところです、今後どうするかお相手の方と相談して今度は2人で来てください。
もし、中絶する場合は1日空けておいて日程を決めるのでどちらにしても必ずまた来てください…

確かそう聞こえてはいたけど、その男性医師の声はほとんど、まともに受け止めていられなかった。
その声は、とても遠くに聞こえていた。

その猶予の間、強い不安と恐怖におおわれ、悩ましく、虚無で苦しい時間をひとりで過ごした。

もらった白黒のエコー写真には、小さな小さな袋のようなものが写って、楕円になって何も知らずに私の子宮の中で揺れている。
小さくとも、はっきりと肉眼でも確認できる。

ここにいるんだ。赤ちゃん、1人で育てられないよ。
どうしよう。わたし、お母さんになれないよ…
看護師なのに、こんなにくたくたなのに、子どもなんか絶対育てて行けない…

一日、一日不安はよぎってはつのり、つのっては体調も崩し、嘔吐も続いた。

安定した仕事を持っていても、夜勤や緊張感の続く日々で、とにかく新卒の頃からずっと毎日がくたくただった。

この先も続くであろうこの生活が、不安定でくたくたな無気力な自分のことも不安だった。

金銭的にも、奨学金や貧しい実家への仕送りをしていたので貯金もほとんどない。
男に転がり込まれたままの当時、地方の家賃4万円でも、一人暮らしの私にはそれなりにしんどい出費だった。

その上に、いくら好きだった相手の子どもとはいえ、ぼろぼろの自分の身体の中から人間を産み、育てて愛を与え続けるなんて、弱い私には絶対にできないと日に日に、強く感じた。

やがてつわりが始まって、日々、変わっていく身体への恐怖に毎日泣いた。

きもちわるい、食べられない。

仕事を休めない。

患者になじられても、追われるように業務が舞い込んで、先輩に怒られて、夜勤がきて、また次の日がきてまたその場しのぎのやっつけ仕事が続く。
自宅と職場の往復だけでへばって、時には家に帰り着く前に植木に寄りかかって休んで帰ることもあった。帰れば、ベッドまでたどり着けずにその場で泥のように眠ってしまう。

週のうちの何日かは、気持ち悪さと不安に脳が休まらなくて、眠ることすらできない。
休み方がもう分からない。

言葉にするすべも知らずに、ただただ吐き気と終わりのない気持ち悪さは続く。

この先を想像したその未知の恐怖は、これまでに体験したことのない耐え難さだった。
喜びよりも、恐怖と不安だけが強かった。

もう別れを告げたからには、相手に告げることも、相談することももうできない。自分1人で決めなくてはいけない。

つわりのせいで、においのする食べ物が受け付けず、炭水化物を見るたびにトイレに駆け込む。
ケアの最中に、患者の血液を目にしては嘔吐感に襲われてすぐ吐きに行った。

ほとんど、仕事になっていなかった。

嘔吐していると、体のほてりと口の中に酸を感じて、早くこの苦しみを終わらせたいと強く願ってしまう。もう、この身体で生きることをやめたい。
そんな恐ろしい願いが芽生えた自分にも焦った。


「中絶します」
あの受け入れられなかった日からすぐに1週間がたって、震える声でそっとその言葉を医師に告げた。

今、この瞬間は世界の全てが無機質に感じられる。

なんて長い時間なんだろう。

頭が重たい、身体が支えられないほど重たい。

お願いだから早く終わらせて…

とっても赤ちゃんが大好きな先生です、入り口のスタッフ紹介コーナーの紙の上で優しく微笑む男性医師は、私がした罪の選択を無機質に受け入れる。
冷たく、重たく、軽蔑した目を私に向け、静かに机の引き出しを開けて紙を渡した。

「中絶の同意書」というものだった。
説明をほとんど聞く気力もなかったが、ただ私には医師のあの目だけが忘れられず、帰りのバスの中でずっと泣いた。

私は大変な罪を犯してしまった。
この先、人生で子どもを望むことなんて二度としてはいけない。
私のようなダメな人間がしあわせになることは許されない。そんなことがあってはいけない。

強く、何度も何度もそう自分に言い聞かせる。
しようがない、私が悪いんだもの。
馬鹿だったのは私、これは罰なんだ。妊娠したのは私の身体、自分でこの罰に報いなければ。

帰宅してすぐ、1人で重たい空欄にサインし、"配偶者または同意者の方"の欄にも自分でサインし、相手の苗字の印鑑を押した。

空っぽの心に、頭の中に、冷たい医師の目と軽蔑、悲しみが言葉もなく暗くこだまする。

数日後、出産経験のない妊娠8週の私の身体は、狭い子宮口を膨らませるために海綿体でてきたコットンのようなものをつめられた。

病衣に着替えるよう指示される。点滴を施され、点滴台とともに歩いてオペ室に入る。
白いベッドに臥床し、左右とも両足をそれぞれに固定される。
すぐに眠くなりますよ…声をかけられ、あっという間に意識が遠のく。

今どれくらい眠ってるのだろうか。
今ここはどこに向かっていて、私は果たして今、生きてるのだろうか。

意識が遠い場所にあってよく分からない。
ここはどこだろう、サイケデリックなぐるぐるの輪が見える。

その見えない奥を、突き刺すように激痛が走る。

いたい、いたい。いたい。

どことも言えない遠い場所から、つんざくように強い激痛が繰り返し訪れる。

いたい、いたい、いたいよ。
もうやめて…
どうして?

そうか、今わたし、遠くにきてるんだ…
赤ちゃん、ごめんなさい
弱いお母さんでごめんなさい。

この痛みは、どれくらい続く?
いたい、いたい。いたい。

またサイケデリックなぐるぐるが、連続して終わりのない範囲で奥深くまで続き、痛みだけが意識をとらえる。

激痛が続いて、何かに溺れたような感覚でふっと目覚める。

静かな、真っ白な天井に見つめられている。

ここは、布団の上だ…
私は、そうだ、病院の中にいるんだった。
痛みは、もう無い。体はだるいけど。
気持ち悪さも、もう無い。

あのぐるぐるの連続は、なんだったの?
赤ちゃん、死んじゃったんだ。
許して。産んであげられなくて、ごめんなさい。お母さんになってあげられなくてごめんなさい。

精算を終えて、ふらふらする足元を消耗し切った身体で支えながら、なんとかタクシーに乗る。

一言も発さずに、暗い家路に着いた。

つわりは、もういっさい感じない。
ああ、全部終わった。
私のせいで、全部終わったんだ…。

明日は、また仕事に行かなくちゃ。

翌朝は、いつものように8時前に出勤し、何も無かったかのようにその日を終えて、ふらふらする頭を必死に起こして帰宅した。
ひたすら、泥のように眠った。

その日から、虚しさを抱えながら、ただ泣くことでしか自分を保っていられなかった。

ふとしたときに意味もなくはじまる嗚咽に、余計悲しさと悔しさが止まらなかった。

私がいけなかった。弱い自分が招いたことだから、今その罰を受けてるんだ。

そう思うことでしか、弱い私には選択すること、それを受け入れることができなかった。

そして、それは今も私の人生について回る事実であり、十字架でもあり、苦しみでもある。

あの子を殺したのは、私なんだ。

そんなことも無かったかのように、私は私の人生をまだ生きている。

世の中は、変わりつつある。

あのとき、アフターピルを思いついてれば。
あのとき、薬局でアフターピルが買えてたら。
あのとき、私の選択肢が中絶じゃなかったら。
あのとき、別れたりしなかったら。
あのとき、コンドームつけてよって言える自分だったら。

そう思う日もあったけど、忙しさや環境の変化が目まぐるしく、わざと忙しい日々を送るようになった。ふと歩みを止めては、自分を呪う日もあった。

この10年、いろんなことがあった。

環境を変え続けて、職も転々とした。
なるべく、人に優しく生きようと決めた。
自分にも優しくしてやろうと思うことも増えた。

新しい仕事や勉強をはじめたり、自らアクションを起こして創作に勤しんだり、人との出会いもあった。

痛みという罰を受けたこの心と身体で、こうして文字にすることでしか、中絶した事実に関して、もう私にできることは何ひとつ無かった。

子宮に宿ったいのちを生み、育てなかったことを、また後悔する日が来るかもしれない。

それでも、10年経って、小さなありきたりの幸せを願う自分を許してくれた人がいる。

子供を産む気はほとんどもうないけど、自分を守り、自分のペースで人生をよりよくする努力ができるようにもなった。

あの時、会えなかった我が子に、十字架を背負うことはあっても、私がした選択を今は一切後悔していない。


私は、私自身のためにこの身体を持っている。


私は、私自身のために選択をした。


                  厄介なつき

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