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285. さてどうするか

焦燥に追われている。
「何か」をしなければならない。
筋トレを、作曲を、ボールリフティングを…

「努力をしている」
「積み重ねている」
「成長している」

そんな感覚を得られるように。
そうでなければならない、そんな重圧を抱えている。

ゲームをする、映画を観る、音楽を聴く、YouTubeを…
するとなにか「罪悪感」のようなものに苛まれる。
無自覚にも没頭出来るような「何か」を生み出し発信している人々がいるなかで、私はただそれらを享受するだけで漫然としている。
「これでよいのだろうか?」
そう思うと、「娯楽」は消えていく。
何の気なしに見始めた動画にもう集中できない。
がむしゃらに「生産性」を求める。
目に見える成果を、報酬を、数値を。
即物的・物質主義的な思考に陥っていく。

焦燥感にのみ突き動かされる今を、いつかは肯定できるやもしれぬ。
「あの時は本当に辛かったけど、お陰で今がある。」
そう言ってのけることは「善」と言えるだろうか。

のちの幸福に繋がるのであれば、現在の苦しみを耐えられる。
「むしろ耐え忍ばねば、幸福にはなれぬ。」
そんな風潮は欲しくない。

「苦しいことがなかったら、嬉しさもない。」
そんな言説を理解することは出来る。
ただしその仮定条件に見合う一生を、貴方は描いてきたと言えるだろうか。
何の苦もない生涯を100年生きたワニが幸せでなかったと言うのなら納得しよう。

答えがほしい、ただ楽になれる方法を。

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