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気を遣う

薄々と気がついてはいたのだけど、そしてでもまあそんなに問題があるほどでもないよなとか、自分では目一杯そうではないように振る舞ってはいたつもりではいたのだけど、多分私は気が遣えない。

なんとなく元気がない人がいたとして、
たとえば割と長いこと同じ職場にいるけど一緒に業務を行ったことの無い職場の人とか、いつも飲みにいくお店でよく顔を合わせるけど名前は知らないぐらいの人とか、そういう、ちょっと距離がある人に「なんかあったんだろうな」となんとなく慮ってそっとしておくということはできる。

すごく親しい友達とか家族だったら、何があったのかなかったのか聞いて出来ることをするということもできる。

でも、それはどちらもなんとなく、気を遣うっていうのとは違う。
気を遣うというのはもうちょっと積極的に親切でかつさりげないイメージだ。

イメージだけで具体的なシチュエーションが湧かないあたりそもそもお察しなわけだけど、たとえば、来客が疲れていそうだからお茶の温度をどうこうするとか。元気がない人がほっと一息ついて、「実は・・・」と話を始めるとか、物語が始まるのはそういったちょっとした積極的な親切であるようなことが多い気がして、そしてそういったことが自分にはさっくりと抜け落ちているということを唐突に自覚した。

「なんかあったんだろうな」と放っておいたら、そりゃ物語は始まらない。

でも私は「熱いお茶を一杯ください」とか「ちょっと相談がありまして」とか言われないと自分から何かすることはないだろうなと思う。

どうしてなのかも良くわかっていて、自分だったら放っておいて欲しいからなのだけど。求める前に何かしてもらってしまったら、何か返さなくてはいけない観念にとらわれてすっかり気が重くなる。
しかも余計なおせっかいだった場合、迷惑度合いは何もしないよりなお重い。

良いとか悪いとかの問題ではないけれど、これで余分なトラブルに巻き込まれるのを回避できたことは多いのだろうし、ひとと関係を深めるチャンスを逃してきたということも多いんだろうなとは思う。

そうであっても親しくしてくれる友人や仲良くやってる恋人はいるのだし、まあ、生きる中で波なんて無くて良いから別に気を遣えるようになりたいと思っているわけではないのだけど、自覚があるのとないのでは大違いなので気がついて良かったな。


ちなみに私は割に思っていること、特に嫌なことがあった場合に顔にもろに出るらしく、それは自覚がなかったので教えてもらったときとてもビックリした。(ちなみに教えてくれた人は私に自覚がないことにビックリしていた。それぐらい露骨らしい。)ということを教えてくれたのも親しくしてくれる人であるので、数は多くないが友人は大切にしようと思うのと、もう少しポーカーフェイスを身に付けたいとは思う。




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