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許す、とは――

何らかの問題を引き起こした者が、被害を受けた人に謝罪して受け入れられること。

と、もやしの認識ではそうなっています。
けれど最近は『許す人』って随分減ったと思いませんか?

生きていればミスをします。
それも一日のうちに何度もです。
それがオオゴトにならないのは、単に自分やその周囲だけでフォローできる些細な内容だからです。
見知らぬ他人の小さな出来事を、いちいち問題に発展させるような暇人は多くありませんからね。

だからでしょうか。
ひとたび周囲に知られるミスが出ると、ものすごく叩かれません?

炎上の話もそうですし、やたらミスに厳しい人もそうです。
前者は外野。こちらは以前【昨今の炎上事情】で少し語ったので置いておきましょう。
だから今回は後者の『被害者』および『被害者に肩入れしている人』について語っていきたいと思います。

1:まずは迷惑を掛けた『被害者』が相手であれば謝罪するしかありません。
回復可能なことであれば、ミスのない状況に復旧するのが先決です。
発覚から対応まで早ければ早いほど、影響は小さく済みますからね。
初期不良やリコールの対応がそれに当たるでしょうね。

2:次に同じことが起こらないように対策を考えます。
対策を求められるかどうかは別として、原因と要因を紐解きミスという結果に繋がらない方法を模索は必要です。
やはりミスの発生を減らすことは、お互いにメリットしかありませんからね。

3:最後に。場合によっては発生した損害の弁済を行うこともあるでしょう。
限度はありますが、より良い関係を維持するための一つの手でもあります。

ここまで万全な対応をすれば文句ないだろう!
そう思ったのも束の間、そこまでしても許してくれない人が存在するよ、というのが今回のお話。
けれど明確に何をしてほしいかは言わなかったりするので、本当に困ったものです。

そして輪をかけて問題なのは、何故だか被害者の肩を持って割り込んでくる全くの他人や友人です。
何なら当事者間で納得していたとしても、何故か『納得できない』と割って入ってきます。
たとえば一方的に不利な話で丸め込まれていれば、たしかに正義を語れるかもしれません。
けれど直接的な利害関係がありませんから、何を言われても対応は不要ですしできません。
そもそも決定権はあくまで当事者間にしかないことから、むしろ話がややこしくなるだけで、いいことは何もありません。
どうしても参加したいのなら落としどころを一緒に探っていくスタンスを持たないといけません。


このようにとにかく被害者意識が異常に大きい人って居ますよね。
感情を優先してしまうタイプ、とでも表現すればいいのでしょうか……。
こうした人たちが口にする魔法の言葉が

「誠意が足りない」
「納得ができない」
「反省が見えない」

という、いかにもな単語があります。
この彼ら・彼女らの言う誠意や納得・反省は、とにかく『自分の気が晴れない』という意味になります。
つまり『ご機嫌取りしろ』とごねているわけですね。

現実に大きな苦痛や不信感を与えられたのですから、許すかどうかは被害者の自由で間違いありません。
また、訳知り顔で他人が『こんなに謝ってるんだから許してやれよ』なんて割ってくるのもおかしな話です。
被害者の痛みは当人でしか測れませんからね。
結局は損害を与えた側はどこまで行っても許してほしいと乞うしかありません。

けれど同時に加害者側が『許されないことを受け入れる』のを拒否することもできません。
どういう意味かと言えば、何かしらの譲歩を引き出そうと無理難題を提示して、いちいち試してくる人への対処がそれに当たります。
これは加害者へのただの脅しであり、その究極が『土下座させた姿を動画で撮る』みたいな理不尽な行為に及ぶわけです。
少なくとも当人が許容できる謝罪を行っているのですから、折り合いがつかない場合は諦めて縁を切る努力を互いにする方が賢明です。
不毛なやり取りで精神を病むだけですので。

ともあれ。今の世の中……いや、昔からかもしれませんが、やたらとミスにうるさい気がします。
完璧を目指すのは当然ですし、ミスが嫌なのはわかります。
けれど全くミスをしない人というのは存在しません。
たとえばそれはドライバーに無事故を強要しているのと同じです。
努力はできるけれど状況によるとしか言えず、もしも無事故が実現するなら保険業など成り立ちません。

逆の考え方もできます。
たとえば年俸何億ってもらってるようなプロ野球の強打者でさえ、五割以上も打てないんです。
半分も打てていない、とも言える状況で『ミス』って呼ぶ人が居ますか?
違いますよね。

だからといって『皆ミスしていこうぜ!!』という主張でももちろんありません。
もやしが言いたいのは、

もっと寛容になろうぜ

って話です。
実は『ミス』という言葉の受け取り方は千差万別で、人によって感じる重さや範囲が違います。
この差を埋めるには対話しかないのですが、それが必要なのがまさに『ミスの渦中』なわけです。
そしてどちらか一方でも余裕が奪われると話にならず、何ならその焦りが伝播してしまう。
最後は互いに右往左往して何も進まず、問題が最大化していく地獄絵図に発展することがしばしばあります。

こうした悲劇を回避するには『世の中には完璧はなく、常にミスは付きものだ』と、まずは認識しなくてはいけません。
が、ここがどうにも上手くいかない。
何故だか皆が『ミスはあり得ない』という意識を強固に持っているんですよね。
そんなことないはずなのにね。

世の中には確かに『取り返しのつかないミス』は存在します。
先ほど挙げたドライバーの事故なんて最たるものでしょう。
ゆえに事故をゼロにするには車に誰も乗らない社会を実現するしかありません。
たとえば映画のマトリクスの世界観に行きつけば、不幸な移動事故は根絶できそうですね。
まぁ、それが幸せかどうかは不明ですが。


さて、今回もやしが言いたかったのは次の通り。

 1:ミスを起こさない努力は怠らない
 2:ミスは起きるものとして考える
 3:ミスが起きたときの対策を用意しておく
 4:抜本的な対策には相互理解が必要である
 5:被害者に『許さない権利』があるのと同様に、加害者側にも『許されることを諦める権利』もある

寛容さは余裕から生まれますからね。
人のアラを探すようなギスギスした監視社会において、寛容さを持つのは難しいかもしれません。
けれど、自分が無理にでも優しくできた分だけ相手は救われているはずです。
そうして巡り巡って自分が大きな失敗した際に、きっと手を差し伸べてくれる人が増えているでしょう。
肩書や役職に腰掛けて偉そうにしていた人と違ってね。

さぁ、皆さんはどちらのタイプですかね?
なんて偉そうなことを言っているもやしが後者ではないことを祈っています。

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