生臭と坊主・19

 年老いた男が慶一達を桟橋に誘おうとした瞬間、その体が炎に包まれた。
 緑の光の中で鮮やかに燃える炎は一瞬にして老いた体の全てに回り、男はコンクリートに倒れ込む。その顔を見てしまった。
 叫ぶ口も、こちらを見る目も、鼻孔も、耳孔からも火が噴き出している!それは常識であってはならないもの、見てはならないものだ。
 島民達が想定外の災難と恐怖で絶叫するしかない。だが美奈は混乱する島民を連絡船事務所前まで押しやり、
「消火器、水!」
慶一は近付けぬ老人のために叫ぶ。豊は連絡船事務所横の水道からホースで水を浴びせる。
「じいちゃん、頑張れ」
激しい水流で暴れるホースを支える慶一も、豊も老人に檄を放つ。しかしその炎は一層強く燃え、体内の物質が一瞬激しく輝いた。
 炎は素早く消えていく。その下火から現れたのは黒焦げた人間のようなものであり、それは水圧でばらばらとコンクリートの上を流れていく。老人の姿は何処にもなかった。

***

 新たな地獄は金切り声と殴打の音で始まった!
「きえええええええいいいいいええええあえあああああ!!!!!」
発狂した女が手当たり次第に人間を引っ掻き回している。
 目を見開いたまま倒れた老婆、港から海に飛び込んだ子供、へたり込んだまま何かを言い続ける女、奇声を上げながらに頭を打ち付け続ける子供──美奈は尻餅を着いたままその地獄を見ている。
「にげよう、とよ」
慶一がふらりと豊に近付くが、親友の目は俺を見ていない。
「おい、起きろ!しっかりしろ!!!」
両肩を揺さぶるが反応はない。彼も彼なりに発狂してしまったのだ。
 「このぉッ!!!」
美奈が発狂した女の腹に拳をめり込ませた。殴られた女はコンクリートに突っ伏す。
 気配を感じ、左を見た。
 忌まわしい緑の世界の中、港の入り口には例の昆虫型の化け物がおり、がに股の足で近付いてくる。唸り声は嘲笑のよう──そうだ、人間を嘲笑っている。
「あなたもばかばかしいっておもうよねぇ?」
美奈に殴られた女はその化け物にふらりと近付いた。
「わたしたちって、ほんとうにばか」
彼女は台詞を言い切れないまま左に飛び、茶色の建物にぶつかる。壁からずり落ちた体はベンチを破壊しながら落ち、そのまま動かなくなった。
 「そこからにげられる」
表情が失せた慶一が化け物の左側へと進む。化け物はもう一度長い腕を持ち上げ、今度は親友に向けて振りかざそうとしている。
「駄目、ケイさん!」
美奈が叫び、豊は最後の弾丸を化け物のがら空きの脇の下に撃ち込んだ。弾丸は当たったが化け物にすれば掠り傷でしかなく、今度こそその魔手が慶一に振り下ろされる。

ケイを守らなきゃ。

豊の体は動いていた。

***

 何が起きた?豊が怪我をしたまま俺に凭れ、化け物がそこにいて、美奈が駆け付けて──その前に、ええと、俺は小籠のSAでイチゴソフトを食ってて──違う、イチゴソフトはどうでもいい!豊が──、
「トヨ!!!」
親友は口から血を噴き出し、右の肩から左の脇腹が抉られている。その体の下敷きになる自分の足が、脇腹が、生暖かい親友の血を感じている。
 目の前から唸り声が上がって理解した。こいつが豊を、記憶のない俺を庇った豊をぶちのめした。
「トヨさん!トヨさん!」
美奈が豊の頬を軽く叩き、呼び掛ける。親友は返事の代わりに塊のような血を吐き出した。

 左側には誰かが落とした鉄パイプが転がっている。
 化け物はいるが逃げ場はない。頼れる人もいない。しかし化け物の体の身長は大柄な人間ほどであり、倒すことで退路を見出だせる可能性はある。つまり、死に瀕する豊を救える可能性もあるのだ。

 「美奈ちゃん、そいつを頼む」
親友を託し、這いつくばるように鉄パイプを拾い上げた。
「豊の仇だ!」
声を張り上げ、恐怖と、非力な自分への自己嫌悪を振り払った。
 振り下ろされた化け物の右腕を左に跳んで避ける。その折りに隙のある脇腹に鉄パイプを叩き込んだのに、化け物は肩越しに平然と慶一を見下ろしている。
 幸いなことに化け物の狙いは慶一に絞られ、少なくとも今は瀕死の豊と武器のない美奈が狙われることはない。
 次は左腕の鉤爪が慶一の頭を目掛けて振るわれる。それを鉄パイプで弾いたが、右の爪が首を跳ねようと横に薙いできた。飛び退いたことで右の額を僅かにかすった。間一髪!
 慶一としては大上段からの一撃で化け物の頭をかち割りたい。しかしあの長い腕は盾としても機能し──今、鉄パイプが弾かれた!──そうでなくとも鋭い爪が振り下ろされる。
(隙が欲しい)

***

 目が霞み、世界が時折り明るく見える。痛みが遠退きそうになる。それでも豊の目には化け物と戦う慶一と、
「トヨさん、しっかりして」
泣きそうな美奈の姿は辛うじて見えている。手にはまだ拳銃がある。
 最後であろう情報統合で慶一に必要な援護を閃いた。
「頼みがある」
声に血が絡む。
「何でもいい、隙をケイに作ってくれ」
「何でもするけど、何をしたらいいの?」
美奈の涙が顔に落ちてきた。
「何か叫びながらこの拳銃を化け物に投げろ。隙が出来たらケイが必ずあいつを殺る」
苦しみと痛みで言葉になっただろうか?なっているから、美奈が頷いた。
 世界が明るくなる。
「やっちまえ」
傷付いた心臓が止まった。

逃げろよ。

それも言葉になっただろうか?

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