生臭と坊主・6

 豊はノートパソコンで愛洲県さなみ郡汀──汀島の地図を開く。この際なので汀島の全貌を説明したい。

 汀島は水滴を思わせる形をしており、36名13世帯が暮らしている。道路は島を一周する1車線の県道388号線しかなく、先述の通り徒歩で1週しても1時間ほどしか掛からない。また、建物の殆どが県道沿いにある。
 南端の水滴の底が大字港。港関連施設、個人商店のえびす屋、消防団の倉庫がある。北西には彼らが泊まる民宿みぎわがある。他にも住宅が雑じり、その隙間をか細い道が蛇行しながら山に続く。この山肌の南側では野菜、ミカンや梅が育てられている。
 そこから逆時計回りに東進すれば大字汀。民宿はまべ、汀小中学校、学校の南隣の奥まったところに墓地、学校の北隣は汀公園──かなり大きい──、学校向かいには初夏から泳げる汀浜がある。汀浜の北部は地形が東の海に向かって尖っている。この辺りから県道は緩い上りとなる。
 汀浜の北東部にもなると住宅はほぼなくなり空き地と言うべき場所は畑か、さもなくば野生の緑が支配する。この辺りまで北上すると山はただの緩い斜面になる。
 汀島の最北端で海に面するのは汀戎神社と境内の汀洞だ。地図で見た限り神社の敷地は相当狭いが、島の人口を考えると充分な規模だ。県道はここからは緩い下り道になる。
 最北端から西進すると民宿みぎわまで住宅はなく、あっても小さな倉庫しかない。代わりに道沿いは梅とミカンの畑になる。
 小規模な島であるため交番と医療施設はなく、有事となれば高速船かヘリコプターが佐波半島から駆け付ける仕組みだ。

 豊はストリートビューから島を見渡す。建物は粗方古く、真新しい色はない。看板は色褪せ、観光地としては不真面目な場所だ。
 港の東端は背の低い草が生える平地と木立となり、それは汀浜に続く。
「!?」
その平地には車輪の跡がうっすらとあり、それは一度汀浜で消える。
(浜の清掃車か?しかし、こんな僻地なら人は来ないし、商店だってないに等しいからそこまでゴミが出ると思えない。でも浜で地引き網ならその運搬車が通る、で辻褄が合う???)
 視点を県道に戻し、北上する。浜の終点のあたり、右側の木立には人間の足で踏み固められた道があり、それは東に突き出た地形に続いている。それを進むと視界が開けた。しかし右手からの車輪の跡と合流し、その跡は平坦な岩場へと繋がる。
「何だ、これ」
平坦な岩場、と言うよりも岩場には土が平らに敷き詰められ、車輪と人の足で踏み固められた道として上りになっている。行き止まりは踊り場になっており、その端には古びたベンチが2つある。
(公園?展望台?なら必ず落下防止柵があるはず。佐波郡は手抜きだな)
行き止まりから海を見下ろすと、10メートル下は岩礁になっている。北側も荒々しい岩礁の地形が続いている。
 県道に戻り、汀戎神社まで進む。その入り口はコンクリートのしっかりした鳥居が目印となり、一帯は松の林になる。石畳は奥で小さな社殿と社務所に、右手は手水舎がある。余りにも小さな社殿は本殿や拝殿と一緒くたになっており、神職の住居は見当たらない。
 石畳は社殿手前の左手にもか細く続き、汀洞前を行き止まりにして終わる。その周辺は岩場であり、汀洞へは備え付けられた階段を下っていく。

 豊は汀洞を検索し、佐波観光協会のリンクから汀戎神社の紹介を経て汀洞の案内ページを見る。

 汀洞を説明するには汀戎神社の成り立ちから説明せねばならない。
 汀洞内の石舞台に丸い岩が流れつき、それを島民達は蛭子神、すなわち豊漁の象徴である戎神として崇めるようになった。
(何故漂着した物を?)
後で慶一に聞いてみよう。
 その汀洞の石舞台は干潮時にのみ現れ、満潮時は水面下に沈み、汀洞自体の立ち入りが出来なくなる。また、雨天時も同様安全のために閉鎖される。しかし朝9時から17時までの間、干潮時であればほぼ年中無休で観光可能だ。
 石舞台の画像を拡大表示する。
 石舞台は見事な円形をしており、フジツボさえなければ神々が密かに酒宴をしそうな場所でもある。だが左手はすぐ海であり、安全のため観光は安全柵のチェーン手前からしか行えない。

 (蛭子が流れ着いたのは西宮じゃなかったか?)
戎と蛭子に関する検索を終えた豊は汀戎神社の説明に疑問を持つ。
(まあ青森にはキリストの墓があるらしいから有り得ん話じゃないが。何にせよケイなら何か知ってるかもな)
 豊は白紙の汀島の地図をフォトショップから開き、慶一が読み取った情報を白紙の地図に書き込む。
 時間は21時15分。汀島中と汀戎神社関連を調べ終えても、慶一が調査に出てから20分しか経っていない。つまり、豊の頭の回転はそれだけ素早い。

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