【ニア・ザ・ウェイ・オブ・デス】

川の畔に、その人影は佇んでいた。
(サンズ・リバーだ)人影は直感する。
自分が死んだこと、あるいは死につつあることに。 

川幅も、流れの元も先も、何もかもが川霧で見通せない。
湛えているのも水なのか、何か得体の知れない液体なのか判然とせず、
そもそも川かどうかも怪しいと言える。
(それでもこれが、サンズ・リバーなんだ)と。
ソーマト・リコールの先にある景色。
その川の名を、頭の中で繰り返す。

不思議がるでもなく、ただ現実を噛みしめるように。
(サンズ・リバーなんだ……)
伝承にあるカロン・ニンジャやダツエ・バーバの姿は見えないが、
人影の心は確かにそうなのだという実感に満たされていた。
これまでの人生に由来する、
途方もない安堵への希求が為せるものであった。

「如何ですか、コトダマの世界は」
川向こうへと目を向ける人影に、声をかけるものがあった。
「あの乱雑な街よりも余程良いでしょう。静けさ……落ち着きます」
続ける声に、人影は振り向く。

自我科患者めいた浮わついた話し方を、その見た目が裏付けていた。
ふざけた紫色の装束に、口を覆うメッシュの入ったマスク。
否、あれは……メンポ?
忙しなく踊る瞳が、時折人影を捉える。
獲物を射竦めるバイオミミズクのように鋭く、
ネオサイタマ下水の汚濁のように凝った目。

目が合う度にチリチリと、ニューロンに熾火の走る感覚。
「貴方は……リミテッド=サン?」
口をついて出た名前を、訝りながら反芻する。
紫装束の人物が笑いかける。
「フフ。ドーモ、アガナ=サン……リミテッドです」

それはアイサツであった。
人影……アガナは衝撃に打たれていた。
名を呼ばれたことに、ではない。
それがアイサツであると自分が理解した、できてしまったことにである。
それではまるで……。

「オメデト、アガナ=サン。
 貴方はニンジャです。アイサツを返されては?」
リミテッドがにやにやと言う。
うっすらと抱いた危惧は、自覚するよりも早く明示された。
アガナはぎこちなく手を合わせ、頭を振るう。
「ド、ドーモ。アガナ……ヨウゴです」

ニンジャ。遥か昔、日本を支配していた半神的存在。
アイサツをされれば、返さねばならぬ。
それは古事記にも書かれていること……。
滝のように流れ出した記憶がアガナを翻弄する。

記憶。ニンジャなるものについて。
アガナがそうなった経緯。
情報量による、強いめまいが襲った。
「ア、アイエ……オゴーッ!!」
「おやおや!」

自分が自分でなくなるような悪寒。
思わずうずくまり吐き気に堪えるアガナを、リミテッドは戯画的に笑った。「これはいけませんよ!
 アガナ=サン、貴方ニンジャなのですから、
 それらしい威厳とか要るでしょう。ヒ、ヒ、嘔吐とは!」
けたたましく不快な笑いに抵抗しながら、アガナはリミテッドを見る。

リミテッド。
そのニンジャもまた、アガナを見ている。
二人のニンジャが、どことも知れぬ場所で向かい合っているのだ。
悪夢としか思えなかった。
「……ニンジャナンデ」
「そろそろ思い出されたのでは? ニンジャソウル、来たでしょ?」

「来た、ような」「だからそれです」
リミテッドの発言に連鎖するように、
アガナは記憶と今とを照合させていく。
自分はIRCで……ウシミツ・アワー……ケマル・ディストリクト……月とあの物体が……そしてリミテッドと名乗る人物。
「見えますでしょ、アレ?」

リミテッドは指差す。アガナは目を向ける。
黄金立方体……今ならばわかる、キンカク・テンプル。
ニンジャソウルが眠る場所。
体が震える。あれから出でたソウルの一つが、アガナにも。

我が意を得たり、と満足げに頷くリミテッド。
「コトダマは雄弁。全て伝わりますよ、アガナ=サン。
 さあ、後はカラテするだけです」
「カラテ……」
虚ろな意識と朧な風景の中、二者は互いに構える。
双方、基本的ジュー・ジツの構え。

イクサが始まった。互いに近寄り数合の応酬。
リミテッドが先んじ、踏み込みと共に槍めいた横蹴り。
受けたアガナは後ろに吹き飛び、
ウケミで衝撃を殺しながら低く構えると、片手で三度空を切る。
否、それはスリケン投擲。
小さく細かなチップ・スリケンが無数に飛び、
リミテッドの追撃を牽制する。

高く飛んで躱すリミテッド。
アガナの迎撃を見破り、此方も空中からスリケン六枚。
素早く暗黒カラテ奥義・サマーソルトキックの態勢を解いて、
アガナが三連続バックフリップ。
数瞬後、アガナの居た場所を抉るように降り来るリミテッド。
フォーリャ・セッカ。

此岸の畔、
シ・ベイの虚ろな白砂が巻き上がり、リミテッドの姿を覆い隠す。
ドトン・ジツの類いか?
警戒するアガナを、後ろからのカラテシャウトが襲う。
練られたカラテを証明する、鋭く強く、重い声!
「「イヤーッ!!!」」
対し、アガナも無策ではない!

「グワーッ!!?」
頭を殴られ、うつ伏せに倒れるリミテッド!
うつ伏せとはいかに!?
パンチを決めたであろうアガナはリミテッドを見下ろす。
殴った姿勢のまま、位置的には後ろである。
一瞬の交錯で何があったのか?

アガナは凝縮された時を反芻する。
突如後方より襲ったリミテッド。
極めて強烈な空中回転蹴り。
アガナはカラテ圧力を背中に感じながら、
しかし振り向かず、念じ、強く念じ、大きく踏み込んで、
前方に渾身のポン・パンチを打った。
その視界が二重にブレ、宙に舞うリミテッドの後ろ姿が見えてくる。

ゴウランガ。多重ログインである!
こと物理ならぬコトダマ空間において、ブンシンするのにジツは要しない。
切り替わった視界の中で、拳は過たずリミテッドの後頭部を打つ。
致命打を受けた頭部が撓み、01の粒子を散らした。

リミテッドがアガナを後ろから襲ったのも、原理は同じ。
だが、地上にあるコトダマ肉体は、
未だポン・パンチの構えのまま残り……今正に消える。
タイプ速度の差か、カラテ制動の関係か。
ともあれリミテッドは敗れ、アガナが勝利したのだ。

「ハァーッ、ハァーッ、約束……」
「アバ……バカな……見事…」
深く息をつくアガナを、倒れたままのリミテッドが睨む。
「アバーッ……まさかこんな……無念です」
「……約束だ……!」
「アバ…オタッシャデー」

パチン、とリミテッドが指を鳴らす。
気付けばアガナは、真っ暗闇の中、
フートンの上でアグラ・メディテーションを行っていた。
果てない川も、白砂も無い。
だが上空には黄金立方体が回転しており、
その輝きに照らされ、フートン上で光るものがあるのだった。

紫色の肌に、マスクを着けた人形。
昔、製薬会社が流行らせようとしたキャラクターだ。
それを手に取り、アガナは瞑目する。
「リミテッド……」
瞼の裏にサンズ・リバーの情景を思い描きながら俯き、
やがてフートンに寝転んだ。

ナムアミダブツ。
目覚めの時を悟ったのだ。
ナムアミダブツ……。


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ミズリは自我科の回転自動ドアをくぐり出た。
久々のシャバの空気を吸い込むと、思い切り咳き込んで、笑う。
(ネオサイタマにシャバなんてないってね)
マケグミの彼女にとっては真理である。
重金属酸性雨と汚染大気に包まれたこの街が、世界の全て。

それでも今は、少し汚染されていきたい気分だった。
ミズリはいつになく神妙になっていた。
病院送りにされたのは自分の責任だ、
もう過ちを繰り返さぬよう、日頃の行いを改める……そう誓いすらした。(あんな所は二度とゴメンだからなあ)

それほどに自我科医院は陰気であった。
医師も看護師も皆、目の焦点の合っていない連中ばかり。
あそこに長くいるうちにそうなったのだろう。
およそ真っ当な人間の入る施設ではない。
更正しよう。彼女はそう感じた。

宵のケマル・ディストリクトを歩きながら、彼女は思いを巡らす。
IRCは一日三十分に限り、外で身体を動かす。
カラテ・エクササイズのドージョーにでも通おうか?
帰りにどこか、寄ってみるのもいいかもしれない。

当然、ネオサイタマでそんな楽観的な行動が許される筈もないが……
ミズリは今だけでも、解放感に満たされていたかった。
路地裏に蹲る闇さえも暖かに錯覚する。
彼女は高揚していた。無理もあるまい。

何しろ、二年ぶりの外なのだから。
約束を交わした友達の顔を思い出せないのだって、
しかたないことだろう……。


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路地を過ぎ、遠くに離れた彼女を、朧な影が見送っていた。
影の名は、アガナ・ヨウゴ。
またの名をリミテッドという。
その姿は、今正に足元から01の塵となって消えていこうとしている。
にも拘らず、彼の顔はひどく穏やかであった。

成すべきことを成した。
何も思い残すことは無い。
死を目の前にアガナ・ヨウゴは、
今に至る記憶を一瞬のうちにソーマト・リコールする。
路地裏からツカツカと歩み寄る、決断的な足音を聞きながら。

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アガナ・ヨウゴの瞳の奥で、一瞬一瞬が次々に映り替わる。
企業ハッカーとしての仕事の末IRC中毒性自閉症となり、
会社保障外の余罪から警察病院に収容されたこと。
盲腸痕にインプラントした秘匿LANコネクタを無線アクセスポイントと接続、密かにIRCを続けたこと。

身動きの取れない現実を離れ、
論理タイプの果てにコトダマ空間を見出したこと。
豊穣の世界でニンジャの実在を知ったこと。
病院の外で七年が過ぎようとしていること。
社会が、彼の望まぬ形に姿を変えつつあること。

残してきた妹が自身の使っていた機材を受け継ぎ、
ハッカーを副業に生計を立てていること。
その妹もまた、IRC中毒となったこと。
彼よりも症状が重く、
今夜、彼女はとうとうフラットラインを迎えようとしていること……。

妹が……アガナ・ミズリが死に瀕している。
それを知った瞬間、アガナ・ヨウゴのニューロンはスパークした。
正しく電撃的速度でグローバルなコトダマ空間を駆け、
己のUNIXが用いたプロキシサーバを介し、
妹のローカルコトダマ空間のIPに辿り着いた男は愕然とする。

時既に遅し。
【贖】とショドーされた旗を掲げる、小さなコインランドリー。
家名と、兄の犯した行いへの罪滅ぼしのダブルミーニング。
妹のコトダマ内面であったそれが、ミズリの魂と呼ぶべきものが、
朽ち果てて01に消えんとする様を、彼は見た。

許されることではなかった。
認められるものではなかった。
アガナは叫んだ。
誰でもいい、助けてくれ。
ブッダか、死神か。ダメだ、実在しない。
誰か。
俺の命を捧げる。
誰か。そうだ……ニンジャならば! 

思いつく限りをぶちまけ終えた頃。
アガナの前に、突如それは現れた。
月と黄金立方体に照らされた、朧な人影。
ニンジャソウル・ディセンション現象。
そう呼ぶらしい。
死に行く者がニンジャの亡霊を見ると、
その命をもらって蘇ることができるというのだ。

死せる妹の元に現れたのだろう、
その影が、ミズリのソウルに触れようとする。
アガナは不意に、言いようの無い不安に襲われ、掴みかかる。
振り向く影。ノイズ。
混濁する自意識。
何が起きたのか、
何を自分が起こしたのか、すぐにはわからなかった。

やがて、荒れ狂うコトダマの中で、うっすらと理解した。
自身がアガナ・ヨウゴであり、
アガナ・ミズリであり、紫の影……ニンジャであることを。
原理はわからない。
希薄化した二人分の自我と朧な影とが混ぜ合わさり、
丁度人間一人分のソウルとして固着したのだった。

もがき苦しむアガナに、「自問」するものがあった。
ニンジャ。
その存在は一つの提案を持ちかけた。
このままでは諸共に死ぬ。ニンジャの力とカラテを使え。
生き残りたければ。
その女を、死ぬ気でKICKしろと。

深く考える余裕も、そのつもりもなかった。
妹の意識は、未だ眠ったままだ。
このニンジャの言いなりになるわけにはいかない。
(ろくでなしですまなかった、ミズリ)
アガナは己を強いて決意し、行動した。


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追想より立ち返ったアガナは気付く。
後ろからの足音が止んでいた。アガナはそちらを見る。
トレンチコートにハンチング帽姿の、体格のいい男。
何者かはわからない。
ただリミテッドと同じ、ニンジャであることはわかった。

それを悟ったアガナが先に切り出す。
「ドーモ。リミテッド……いや、アガナ・ヨウゴです」

トレンチコートの男は、
その目に瞬時の揺らぎを浮かべた後、アイサツした。
「ドーモ、リミテッド=サン。ニンジャスレイヤーです」

男にも、何らかの状況判断が生じたのだろう。
カラテは構えず、アガナを見ている。
アガナは事情を知らないながら、感謝して言う。
「ニンジャスレイヤー……俺を殺しに?
 だが、どうせもうすぐ死ぬんでね」
「そのようだ」
01消失は最早腰まで達している。

「もしかして都市伝説の死神か? 実在したんだな」
「無駄口を聞く気はない。ハイクを詠め」
語気を強めるニンジャスレイヤー。アガナはなおも穏やかに返す。
「詠むさ。
 けど、噂が本当なら、これで妹は助かったってわけだ」
「……」

元気そうな後ろ姿を思い返す。
妹は、無事ただの人間として蘇生した。
一方兄は、退院の日まで良く保った方だろう。
我ながら無茶をしたものだ。
『宿主であるアガナ・ミズリに、
 ニンジャソウルに憑依されたアガナ・ヨウゴを、
 拒否の力であるカラテを以て退出させる』などと。

筋書きはこうだ。
ニンジャをどうにか捻じ伏せて、自分に憑依させる。
コトダマには慣れている、やってみせる。
その自分をミズリにKICKさせ、ソウルの所有権を明け渡す。
それだけの、実現可能性の低い試み。

サンズ・リバー、アガナ・ヨウゴ、ニンジャ。
アガナ・ミズリに必要ないものをイメージ、
具体化するのは難しくなかった。
だが、ミズリのコトダマ体には限界が来ていた。
加えて、他者を蹴り出すだけのカラテ、タイプ力が、そもそも無い。
ならば。

死神のごとき男は、ただアガナを見ている。
「……」総身に漲る類稀なるカラテ。
そう、そんな力があればよかった。
『だから与えた』。
既にニンジャとなっていたアガナ・ヨウゴのコトダマ体と力を、妹に。
その際、記憶も混在したようだったが、問題ない。

自身は?同じ要領だった。
アガナ・ヨウゴの意識は、ニンジャ自身とそのイメージと溶け合った。
表向き、ニンジャの提案に乗ってみせた形だ。
実際、もう分かちがたいところまで混ざってはいるのだから。

虚空に消え行く自分の身体に触れる。
紫装束。マスク。その風貌には原型があった。
昔、製薬会社が流行らせようとしたキャラクターだ。
アガナがその人形を誕生日に贈った時、妹は十二歳。

彼女はさして喜ぶ素振りも見せなかった。
店舗10体限りの期間限定品で、手に入れるのに苦労したものだったが、
結局ブームとはならず、企業サイトからも姿を消して久しい。
けれどそれはあった。
フートンが敷かれたコインランドリーの片隅に。
心の、真ん中に。

だから名乗った。
今だけの限定品(リミテッド)と。
ここで断ち切られる運命となるべく。
彼女の心を、いつまでも縛り付けることの無いように。

……かくして、事は成った。
演技は少し、下手糞だったかもしれないが。
ミズリの意識は異物への容赦ない攻撃に成功。
リミテッドなる異邦人は彼方に消し去られたのだ。
彼女の死も、力も、兄も、過ごした記憶も、全て。

胸上まで消えた自分と、いつの間にか赤黒い装束に変わった男を見る。
「やるべきことは、やった」
これで、邪悪なニンジャごと消えて無くなれる。
まかり間違って残ってしまっても……
目の前の男が、殺してくれるだろう。

「そうだよな?」「知らぬ。ハイクだ」
「ハイ、ハイ」
研ぎ澄まされた意志を受けて、アガナは思う。
こんな清廉な兄でありたかった。
積年の憎悪を滲ませる眼を見て、更に思った。
このような男にも、ままならぬことがあるのだ、と。

「教養がないんでな、アー……むらさめの/隠された口は/笑っている」
穏やかな無表情を浮かべて、アガナは呟いた。
次の瞬間、アガナの首までが消え、
「サヨナラ」その次の一瞬、口が消えた。

ニンジャスレイヤーは凝視する。
最後に残ったリミテッドの瞳が、路地に落ちた何かに向けられた瞬間を。
そうして、アガナ・ヨウゴはこの世から消え去った。
永遠に。

重金属酸性雨がしとどに降り注ぐ。
路地裏のネオンを映す水面には、最早何も残されていなかった。


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ケマル・ディストリクトの外れ、とあるアパートメント。
5-い号室のドアを叩く者あり。
音につられ、監視カメラで外を確かめた住人は、
そこに誰もいないことを見て取ると、そっと扉を押し開ける。

やはり、誰もいない。
火の用心。すぐにドアを閉める。
一体なんだったのだろう?
まだ自我に問題が?
疑問を浮かべた彼女は、はたと気付く。
玄関脇に置かれた、見覚えの無い人形に。

 見覚えが……無い。
 はずだった。なのに。
「ナンデ」
 紫色の肌、メッシュの入ったマスク。
 こんな変な人形。
「ナンデ…………?」

…ニンジャ聴力が知らせる、アガナ・ミズリの啜り泣く声を遠くに聞いて。
高層ビルディング屋上からネオサイタマの夜景を睨んでいたニンジャスレイヤーは、一度だけそちらを眺めた。
彼はすぐに目を戻すと、ビルより飛び降りて闇に溶ける。

その一瞥は、アガナ・ミズリの兄のように穏やかなものだっただろうか?
髑髏めいた月は重金属酸性雨の雲に翳り、
今宵はもう、誰の問いにも応えようとはしない。

【ニア・ザ・ウェイ・オブ・デス】 終わり

◇本稿は小説「ニンジャスレイヤー」を題材とした二次創作小説です。
 「ニンジャスレイヤー」公式とは一切関わりありません。

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