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インターネット空間を考える。世界と自分が一体で体験と意識が分離されていない状況"参加する意識"へ。

家の周りにこんな場所あったけ?と新たな発見に心弾ませながら、ニューノーマルになりつつあるこの生活に馴染んできている。芥川や夏目漱石あたりの純文学の昔ながらの手触りに考古学的に新たな発見を見出して、脳味噌を内側からじわじわと溶かしている。世界観が広がり柔軟になり、やがて全く新しい思考が生まれるその瞬間を探し求めながら。

まだ正午にはなっていないだろうと思いながら窓をあけ、外の風の音や鳥の音を環境音楽とともに感じる。そんな音のシャワーを浴び、今このnoteを書いてることがどれだけ幸せなのだろう、と。
環境音楽については無頓着ではあったが、最近自宅での作業が多くなったことをきっかけに触れる機会が多くなった。またポッドキャストの企画でチルアウトとは何か?というテーマに際して、THE KLFの『Chill Out』に出会った。チルアウトとはこれか!と新たな世界に感心しつつもこの世界の環境の一部としての音楽という側面にについてひどく感動した。気分にあった曲がみつからない時はとてもぴったりだった。自分の存在と自然的な空間をありありと感じることができた。風のそよぎと雲の動きを感じながら内で踊る。この面白い感覚の話はまた次の機会に話そう。

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とはいうものの会話の身体性(ジェスチャーやその場の雰囲気)をなくしてそろそろ衛星を介してのコミュニケーションもまいってきた。言葉はそれぞれが想像するアーキテクチャを提供し理想通りのイメージをすることができるが(小説がわかりやすい例で、読みながら自分の想像力を膨らませ完璧なイメージ像を構築できる)、時にはその可能性が斜めの方向にむいてしまう時もある。相手の意図しない負の方向へ向いたり予期もしない意味性にゲンナリしてしまうのもね。

だから自分自身で考えを熟成させ”書く“ことを始めたし、Podcastや作品で対話することを決めた。話すのって本当に大事だな、超楽しい!とポッドキャストや楽曲を共作で作り感想をシェアしあう度、痛感する。

現在、週一回で放送予定(あくまでも予定)の自身のポッドキャストでは毎回テーマに即したインプットを行い考えをまとめている。第二回目は「インターネットの可能性について考える」。多くのものが仮想空間にあって物理的な自粛が求められている中このインターネット空間に想像力を広げてる人も多いかと思うが、そんな今だからこそインターネットの可能性について議論していきたい。


想像力の境界線を押し広げるライブ配信の可能性を探る

リリースパーティーやイベントがなくなり、自宅での生活が余儀なくされるこの沈黙の時代に僕らの想像力の境界線は自宅大きさに限られる。そんな時に想像力を広げる装置として機能するのがインターネットではないだろうか。

そして自身でもそれを体現すべく、Podcast毎週金曜21:00の公開2時間後の23:00からYoutubeLiveにて延長戦をやろうと思う。副音声的に番組内では語りきれなかったことを語り、ざっくばらんに雑談をする。リアルタイムでの質問ももちろん募集するので是非参加してほしい。

また世界保健機構 (WHO)とGlobal Citizen (グローバル・シティズン)が主催し、レディー・ガガがキュレーションしたチャリティーコンサート「One World: Together At Home」は記憶に新しい。ライブ配信について可能性を大きく広げてくれた。AppleMusicでは以下でも視聴できる。


あぁ、本当に僕らは地球の市民なんだなとすら感じてくる。このネットワーク空間は海賊的な交流を遥かに簡単にし敷居を下げた。僕らはいつでもどこでも世界へ接続でき、参加することができる。この参加する意識を僕は今この自粛期間で強く感じる。”参加する意識“はモリスバーマンの「デカルトからベイトソン」で紹介されるコンセプトだが、我々の意識は世界と自分が一体で体験と意識が分離されていない状況というもので、僕は参加し世界へコミットすることがこの世界にいる自分を形作っているんだと考える。こういう超越的な思弁を巡らせながらも、もちろん化学的な量子力学のコンピューティングの可能性にも想いを馳せている。

今こそ世界にインターネットによって世界にコミットすべきタイミングなのだ。しかしそれはただ参加することだけではない。世界と対話し声を上げていくのだ。インターネット空間は多くの人と人がつながり合えるアーキテクチャを提供するだけでなく、言論を発信する自由を与えてくれる。




インターネットでの発言の可能性について考える

超越的な思考になりながらもミクロでは苦しい生活が強いられるのはうんざりする。この社会の大きなシステムはもはや公共的な意味合いにおいての仕組みはなく、大きなプラットフォームではプライバシーのトレードオフや新しい価値観への理解と受け入れに対して僕らの責任は重くなり、基盤を底上げするための均等バランスを見つけ出すことこそすら将来に歪みを生じさせているけれど、粛々と声を上げていくしかない。ネットワークによって革命や改善が行われることを信じたい。Podcast内でもインターネットによる改善案をいくつか示唆している。

テクノロジーは、それを使う人間と切り離せるものではない。マーシャル・マクルーハンが言うように、わたしたち自身の延長なのだ。したがって、設計者であり使用者であるわたしたちのもつバイアスがそこに具現化される。どのようなテクノロジーも、その仕組みや目的が中立にはなりえない。ある行動を容易にする一方で、別の行動を困難にするものだ。こうしたバイアスに気づいて修正するにはかなりの努力が必要となる。[インターネットはデモクラシーの敵か味方か──ふたつの“神話”から考える]

プラットフォームがもはや中立的であることは不可能なのは以上の記事で明示的で、僕ら自身が自分で価値を見極めて行かなければいけない。Twitterやニュースを一面的に眺めるだけでは答えは出ない。では新しい価値への理解と受け入れることの基盤を底上げするものは何か?その一つが音楽なのか。

僕にはそんな大それた力は持ち合わせていないし、その大いなるシステムに対抗していくいくぞという強い背中も持ち合わせていない。ただ僕は僕自身が内部に引き下がり新たな発見をすることで作品にしそれが世界につながり、それを聴く人が何かを考えるきっかけになってくれるだけで素晴らしいことだと思っている。というかそれ以上に嬉しいことはないのだ。そして僕自身も音楽を聴くことにより心が浄化され想像力が広がる。生きる糧なんていったら大袈裟かもしれないけど、本当にそう。だから音楽はこの世界でも周り続け常に新しい発見を与えてくれる。たとえ、この世界で独りになったとしても内で歌い踊り続けるだろう。想像力を広げる為に僕は踊り続けるのだ。


okkaaa

他愛もない独白を読んでくれてありがとうございます。個人的な発信ではありますが、サポートしてくださる皆様に感謝しています。本当にありがとうございます。