#夜中の超散文

僕にとって音楽作るってめっちゃ手の凝った料理みたいな捉え方なんです。ミックスの部分は特に。ボーカルの下地をしっかり整えて、調味料と味のバランスをみて煮込む。完成して味が変だったらまた作り直し。それのずっと繰り返しをする。自分が食べたいから作る。最初のうちはそれでいいんです。


小説の中の(スプートニクの恋人)「ぼく」はすみれに説明する。「物語というのはある意味ではこの世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる」。つまりそこでは「温かい血が流されなくてはならない」。

つまりその料理に血が流された時に君はひどくその料理に反映される。時にはそれが直視することすらできなることもあるさ。そしてしの洗礼はあちらの世界とこちらの世界を繋げる。こちらの世界に来てしまったらそれはもうこちらのルールに乗っ取るしかないわけだ。つまりこちらの世界に来たら、序章から最後のデザートまでたっぷり味わう気でいないといけない。それと同時に君はその序章からデザートまでを用意する必要がある。誰でもその要素は備わっているけれど、それを用意する準備がその人そのものに備わっているかどうかが問題なんだ。


サブスクが5周年を迎えたときいて、僕も音楽活動を5年続けたんだなとふと思う。君はそちらの世界をつなげる準備ができていた。5年間、学生生活の中で音楽を続け、EPを3枚出して自分なりの作家性を発見することができた。そして大学卒業を機にその扉は開かれることになったわけで....



今新しい作品を作ろうとしている。君があちらの世界とこちらの世界をつなげようとした時、今までの文脈は通用する?村上文学はどこまで行ってもアッパーミドル階級的で、かりそめの暴力性なのだ。

”レーベルやマネジメントのサポートもなく、ブッキングも自分でやって、ほとんどお金にならなかったけど、こういう時間があったからこそ、自由に、自然で正しいと感じたあらゆる方法を試すことができてるんだと思う。“


いつか読んだインタビューの記事を読んだ。ミドルアッパーでないアーティストが継続的に音楽を続けていくにはどんな仕組みがあるのか、サブスクというシステムを考えた人が地獄に落ちないようにするために何を考えられるだろう。


――確かに先の大統領選やブレグジットなどを見ていると、私たちは「自分と違う世界に住む人」「自分と考えが違う人」を理解して対話することを諦め、放棄しているように思えます。こういう時代における小説、あるいは小説家の役割をどう考えますか。

よりネガティブな、センセーショナルな情報が注目を集める中、私たちはこうしたコントロールできない世界とどう折り合いをつけていくのかに苦慮しています。それでも私たちは、真実がきちんと伝わるすべをなんとか考えなければいけません。それがセンセーショナルだから、とか、目立つから、とか、怒りに満ちているからという理由ではなく、尊敬の念から注目を集めるものが必要です。私たちは何とかしてもっと思慮深いものを作っていかなければならないと思います。 





終わり



取り留めのない夜中の超散文にお付き合いいただきありがとうございます。ラインでは更新情報をお知らせします(したいと思ってます)。始めたので追加してみてください。(次の施策で使おうかなと企んでます。)NOTE読んでくれてるそこのあなたには先んじて紹介しておきたいのでぜひ追加してください。「#夜中の超散文」も更新したらトークでお知らせしますので。


他愛もない独白を読んでくれてありがとうございます。個人的な発信ではありますが、サポートしてくださる皆様に感謝しています。本当にありがとうございます。