創作小説「僕らの」

 僕はその日、自分にグロテスク耐性が無いことを知った。兄貴秘蔵のスリラー映画を無断で見た結果、ベッドの上で盛大に吐いてしまったからだ。
 殺人鬼が女の肉体をちぎって貪る光景がショックだった。しばらく女は見たくなくなった。特に大人の女は。柔らかな肉体が裂かれる場面を思い出しそうで。

 それで僕は、となりで一緒に映画を見ていた太郎に今夜泊めてくれって頼んだ。母さんを見ないようにするためだ。太郎んちの親はうちと違って、思春期の息子にウザ絡みしてこない。いちいちご機嫌伺いしてくることもない。
 挨拶以上の会話は求められない太郎の家に、この夜ばかりは逃げたかった。

 太郎は硬直していた。
 僕と同じくショックを受けているんだと思いきや、実際はその逆。
 太郎は興奮しまくっていた。

「俺も体の中まで暴かれたい」
 と言う。

「え、お前、殺されたいの」

 太郎は首を横に振った。勢いよすぎて、眼鏡がずれた。

「あれはただの殺しじゃない。俺は犯人と被害者の間に純愛を感じたね」
「マジかよ」

 決してそんな物語ではなかった。孤独な女が婚約者に騙されて殺害されたという、救いのない話だった。
 だけど太郎は違うと言う。

「だって被害者は自分の肌の裏、筋肉、骨の白さ、全部をさらけ出して純潔を証明したんだぞ」
「あの映画を見て、そんな感想を持ったのは世界中でお前だけだよ」
「いや、監督も同じ気持ちで作ったと思う。だから犯人は女を食った後に泣いたんだ。愛を信じられずに殺しちゃったから」
「そこまで言うんなら調べようか」
「しなくていい。絶対に、そう。それよりどうしよう。俺はどうすべきなんだ」
「なんの話」
「暴かれたい。俺も皮膚の裏までさらして、愛を証明したい」

 僕は太郎の情熱にどん引いた。お陰で母さんを避けたかった気分がどっか行った。僕の母さんは過干渉でも息子思いの普通の親だ。比べてこんな太郎を放っておける親は……。もしかしたら息子の変人ぶりを持て余して、放置してるだけなんじゃないか。
 そう考えれば、太郎の妹のマリちゃんがブラコン並みに世話焼きな理由も分かる。兄貴には自分がついてあげなきゃって切実に考えてるのかも。

「殺人鬼と付き合うんなら、家族と縁を切ってからにしろよ。マリちゃんが可哀想だ」
「ばーか。殺人鬼なんかに任せねぇよ。怖すぎるだろ」
「お前が言ったんだろ」
「違う。命懸けで愛を証明するんだぞ。信頼できてなきゃ。最低でも十年は仲良くしてる相手じゃなきゃ、俺はイヤ」
「そうか」

 腹が減った。晩飯はなんだろう。
 さっき吐いたのが嘘みたいに僕は正気に返っていた。太郎の馬鹿のおかげ。
 高校に入って一番仲良くなったのがこいつってのはイマイチ映えないけれど、こいつがいなきゃ退屈だったろうから、僕にとっては幸せなことだった。

「メリバは好きじゃないけど、お前なら応援するわ。さ、そろそろ帰れ。メシ食いたい」
「おう。じゃあ悠斗は勉強がんばれよ」
「宿題ヤバかったっけ」
「ちゃんと俺の話聞いてた? 信頼できる相手って、お前しかいないだろうが」
「はあ。お前こそ自分の発言を忘れてんぞ。僕らは出会って一年未満の浅い友達ですがぁ」
「これから十年以上の友情を育むんだろ! 任せとけ。お前以外には肌の下を晒さないように、無病無怪我で生きてくから」
「おかしいって。僕に、健康な中年男性の腹を裂く殺人鬼になれって言ってるの」
「ちゃんと話を聞け。医者になれ、医者だ。悠斗ならなれる。手術で俺の腹を開くんだ」
「お前の切られたい願望を叶えるために、グロ耐性0の僕が医者になるの。へー」
「俺、こう見えてもお前を尊敬してるんだぞ。勉強できるし。足も速いし」
「基準が小学生並みのソレなんだが」
「俺の肌の下を暴いて証明してくれ。一生、信じてる」

 太郎は馬鹿だから、僕に向かって、僕の知らないハンドシェイクを独りでやった。見ての通り、独りよがりの約束だったわけだ。
 だいたい僕には何を証明するのかさえ分かっていなかった。太郎は「愛の証明をしたい」と言っていたが、僕に腹を切られることで誰に対する愛を証明するつもりなのか。

 ところが僕の困惑を余所に、太郎は既成事実を作り上げていく。僕が医大志望だと、先生にも友達にも、僕のおせっかいな母親にまでも言いふらしていった。

 なんてことするんだ、こんちくしょう。そんな行動力があるんなら、自分で医者になって自分で開腹手術をすりゃいいじゃないか。
 だけど太郎ってやつは、悲しいかな、行動力があるだけの馬鹿なのだ。馬鹿だから無謀に動けるのだ。中の上程度の成績の俺に夢を託すくらい大馬鹿なのだ。

 馬鹿は単純だから、その熱量はとてつもなくデカい。太陽みたいに。
 比べて俺は、親がくれた土壌の養分を吸って育つ草だ。草は草なりに努力して、むこうの雑草には負けないくらいに背を伸ばせた。ちょうど良いよな。
 チョウド良イ。

 ――僕は最近、つくづく思う。
 小・中学では優等生と呼ばれ、進学校に入学した時は皆から褒められたのに、今は誰も僕に期待しない。
 何故って。今の僕は成績も器量も中の上程度だからだ。
 自分の立ち位置を理解した時、僕は、分相応という言葉の意味を知った。
 知れば、才能が物を言うこの学校で、どう振る舞うのが正解かも分かった。
 太郎みたいな賑やかしと並んで馬鹿をやって、その割りにそこそこの成績を取れる男子ってポジションが一番居心地が良い。試験と同じ、キャラクター評価も七十八点位が僕にはちょうど良い。
 だけど太郎は。

 あいつだって中学では優秀だった。
 それがここに入って成績下位固定になったことを、太郎は堂々と恥じる。恥じて、自ら居残りして愚直に勉強する。なのにいつも赤点ギリギリで、それで先生や皆から笑われることも、堂々と恥じる。
 堂々としているから太郎は惨めにならない。笑う奴を憎みもしない。

 太郎は太陽なんだ。ただ燃えているだけで、皆から尊敬されている。

 だから。太郎が隣で太陽光線を射し続けるから、僕はついつい分相応を忘れて、もっと背伸びしたくなってしまった。

 太郎の根回しを皆がジョークだと思っていたある朝のホームルーム。
 僕は先生に、医大を志望したいと相談した。
 皆、エッて顔をした。真顔だったのは僕と太郎だけだ。
 先生は言った。

「今の成績じゃ無理だぞ」
「自覚してます」
「大学のリストを作ってやるから、放課後に職員室に来い。なぁに、あと二年ある。本気で取り組めば一浪で済むかもな」

 教室中が笑った。僕も笑った。
 別にからかわれたとは思わなかった。先生の予想は妥当だからだ。滑り止めに甘んじずに浪人するのは当たり前な学校だった。僕ごときが難関校を目指して、一浪で入れるなら儲けもの。
 太郎だけが顔をしかめていた。後で僕の背ろにこっそり近づいてきて、

「おい、一年も延ばすなよ。飛び級で医者になれ」

 と言ってきた。張り倒してやった。


ーーーーー

 僕が医学部を志望することを、両親は喜んだ。やればできる子だから頑張れって。
 そう言われて、僕は少し腹を立てた。高校で中の上止まりになったのは、サボっているせいだと言われた気がしたのだ。
 そうじゃない。僕は僕なりに頑張っていた。その上で足りなかった部分を、先生は

「できるまで続ける努力と、できるように工夫する発想力だ」
 と教えてくれた。
「自分で自分のパーソナルトレーナーをやるつもりで学習メニューを組んでみろ。どうすれば数字の羅列に興味を持てるか、集中力を維持できるか。闇雲に勉強しないために、先ず自分の特性を理解してやれな」

 先生のほうが親よりも僕を理解していた事実がショックだった。
 つまり僕も現実が見えてなかったということだ。親のくれた土壌の養分はとっくに吸い尽くしていたのに、いつまでもしがみつこうとしていた。
 これからは自力で地を這い、新たな養分を吸収しなきゃならない。
 だけど養分は何処にある? また先生に聞こうにも、忙しそうで気が引ける。

 夜、母さんは僕の難関挑戦を後押しするために、好物のハンバーグを作ってくれた。
 昨日までと変わらぬ緩い環境に、僕は初めて心細さを感じた。

 アンニュイな深夜、スマホが鳴った。太郎からの電話だった。
 どうせ僕がちゃんと勉強しているかの確認だろうと思った。
 スマホを机に置いたまま通話ボタンを押した。

「もしもし。ユーアー失礼メン? ちゃんと勉強してるよ。ただいま英語のテキスト三十二ページめ」
「あの、私、マリです」
「えっ」
「太郎の妹の」
「あ、それは知ってます。マリちゃんは太郎の妹ですよね。ごめん、変なこと言った。太郎と勘違いした」
「いえ、こちらこそ、いきなりすみません」

 遠くに太郎の笑い声が聞こえた。どうやら通話は筒抜けらしい。あの野郎、明日殴ってやる。
 僕は想定外に弱い。
 突然の電話に初手で恥をかいて、脳内はお祭り騒ぎが起こったみたいに動揺していた。
 慌ててばかりの僕の代わりに、仕切り直してくれたのはマリちゃんだった。年下なのに僕らよりも大人びているのは、馬鹿な兄貴の尻拭いをしてきたせいだ。

「悠斗さん、困ってませんか」
「え、何に」
「また兄が迷惑をかけているみたいで。受験のこと」
「ああ、それか。大丈夫だよ。うちの親も喜んでるし」

 なんて返答しながら、僕の頭の中では騒ぎが続いていた。色んな僕が好き勝手に喋っていた。

『喜んでたけど、学費は大丈夫かな』
『地方の医学部なら入りやすいかも』
『浪人したら予備校代も必要だ』
『ハンバーグよりも唐揚げが食べたかった』
『一人暮らししたい』
『太郎は明日殴る』

 まったく思考の統一ができない。
 僕は僕の声の洪水に蓋をして千々の意識を黙らす必要があった。でなきゃまともに会話できない。
 なのに千々の僕ときたら揃ってアホで、今度は英語で喋り始めた。もちろん片言だ。脳内を流れる下手な英語を聞いているうちに、僕は電話の最初にマリちゃんに言った「ユーアー失礼メン?」を思い出した。疑問文なのに断定形になっていたじゃないか。
 ガッカリ!

 ――と僕はこんな具合で思考の沼に沈み、あっぷあっぷし続けていた訳だが、永遠の苦しみを味わっているようで、現実の時間は十秒も経っていなかった。
 混乱と羞恥の無限地獄。
 僕はもう電話を切ってしまいたかった。そしてベッドに突っ伏して全ての恥を嘆き、言動を悔いたかった。

「僕ごときが医者になりたいだなんて言って、ごめんなさいって感じだよね」
「えっ」

 マリちゃんが驚いた。そりゃそうだ。唐突に自嘲されたら困るよね。

「そんなことないです。悠斗君なら何にでもなれると思います。でも兄の自分勝手には付き合わなくて大丈夫ですって伝えたくて」

 マリちゃんは優しい。僕が兄だったら絶対に妹にこんな気苦労をさせなかった。
 そしたら電話もかかってこなかったし、僕が恥をかくこともなかった。
 全部、太郎が悪い。

「マリちゃんも大変だね。僕もまあまあ大変だけど大丈夫だよ。気にしないでね」
「本当にどうして医者になれなんて言ったんだろう。理由を聞いても、悠斗君ならなれるからとしか言わないんです。意味が分からないでしょう?」
「うん……そこに関してはつっこまないほうが良いかもしれないよ」
「悠斗君が優しいからって調子に乗ってるんですよ。このままじゃいけないって、本気で思いました。他所様に迷惑をかけちゃいけないんです。だから、私が医者になります」
「えっ」

 向こうで太郎も声を上げた。

「ねえ、お兄ちゃん。医者の友達が欲しいのか知らないけど、私がなれば満足だよね」

 太郎は焦って否定した。別に医者は関係無く、いっそ殺人鬼でも構わず、真相は肌の下をも晒して愛の証明をしたいだけなのだから。
 だけどさしもの太郎も、妹に変態じみた狂気を明かすのはためらわれるようだった。

「お前には頼んでない」

 の一辺倒で断ろうとした。
 が、幼少期から兄のために責任感を育んできたマリちゃんの

「他所様に迷惑をかけるな」
 
 という正論に勝てない。それに太郎には、マリちゃんの進学先選択に口出しできない重大な理由があった。

 マリちゃんはとても勉強ができるのだ。
 年明けには僕らよりも偏差値の高い高校を受験する予定だし、そんなマリちゃんが医者になりたいと仰せなのを、劣る兄が止める筋合いは無い。

 僕はスマホ越しに兄妹喧嘩を聞きながら、まずいことになったと思っていた。
 もし浪人したら、マリちゃんと同級生になるか、さいあく僕が後輩になってしまうぞ。かっこ悪すぎる。
 なんとしても現役で合格しなければ。

 月夜にアンニュイしてる場合じゃなくなった。
 僕は必死で勉強するようになった。
 先生の指導を参考に自己分析を進め、学期試験の対策を練った。まさに今までいた土壌を捨て、自ら戦略を練り始めたのである。
 これが効果があった。早くも三学期の中間試験で点数がぐんと伸びた。初めて希望が見えた。

 更に嬉しいことに、四月、マリちゃんが僕らの高校に入学してきた。

「これ以上、お兄ちゃんに振り回されないために、私達は共闘しましょう」

 というのが理由だった。それで受験する高校のレベルを下げるのだから、さすが太郎の妹、凄まじい行動力の持ち主である。

 マリちゃんは僕がちまちまと編み出す未熟な勉強法を手早く改善してくれた。
 マリちゃんのそばにいて知れたことだが、本当に賢い子は、誰に教わらずとも自分向けに勉強法をカスタマイズしている。集中力が途切れやすい僕は、一冊の参考書を繰り返し読むよりも、複数冊を広く浅く読んだほうが良いと提案された。ちなみにマリちゃんは読み込み型らしい。自分に合っている方が正攻法なのだ。

 マリちゃんは太郎がいない時でも僕に寄り添って、一緒に勉強してくれた。
 正しく共闘関係にあったと思う。太郎に抵抗するためでなく、医学部受験を共に目指す者として。

 さて、若い僕らが毎日一緒に居たのである。
 当たり前に僕らは恋人になった。
 もちろん、当時は当たり前だなんて思えない。まだ自分の恋心を自覚していなかった頃、自習室でマリちゃんの隣に座ることに特別な緊張感を抱いてしまった日には、僕は自分の軽率さを嫌悪した。受験は高校生の本分だ。なのに真面目に取り組めない自分は、きっと不合格になって一生の恥をかくに違いないと嘆いた。

 マリちゃんは大胆だけど、恋愛事に関しては恥ずかしがり屋さんだった。
 お互いに意識していることを察知し始めた頃、僕らの間にソワソワする空気が漂ったが、マリちゃんは平常を装った。
 ところが勉強疲れを溜めまくった僕が、ある日の放課後、カフェで向かい合って座るマリちゃんに無性に癒されたくなって、彼女の靴の先をこつんと蹴った。マリちゃんは足をずらした。僕はまた蹴った。
 マリちゃんがはっとした。僕を見た。僕はずっとマリちゃんを見ていた。
 開きっぱなしの参考書は一ページも進んでいなかった。

「好きだ」
「今、言う?」

 マリちゃんは苦笑した。

「もっとロマンチックな場所で言われたかったな」
「ごめん」
「いいよ。悠斗君って、そういうところがあるよね」

 これと同じ文句を、初体験の後にも言われた。
 マリちゃんの肌に溺れた興奮から醒めた瞬間に、ふと太郎の願望が頭によぎって、僕が声に出してしまったのである。

「あいつ、僕に肌の下まで暴かれたいんだって。愛の証明らしいよ。だから医者になってほしいらしい」

 愛の名残りの中でうっとりしていたマリちゃんは、可哀想に、顔をしかめた。

「今言う? ほんと悠斗君ってば、そういうところ」
「そんなに引かないでよ」
「どういう意味なの。お兄ちゃんが悠斗君とそういう仲になりたいってこと?」
「そういう仲って?」
「私達みたいになりたいのかってこと」

 声が怒気を含んでいた。
 アホな僕は、ここでやっと発言のマズさに気づいた。

「まさか。違うだろ」
「だって愛の証明なんでしょう。それも肌の下まで暴かれたいなんて、普通じゃない」
「太郎だから」
「そりゃお兄ちゃんは変だけど」

 僕らの間の空気が急速に冷えてった。
 可哀想なマリちゃんは、僕のせいで初体験の思い出が、愛と、兄への疑念が入り交じる悲惨なものになってしまった。

 疑いを晴らすために、僕らは太郎の部屋に赴いた。三角関係疑惑を解消するための三者面談を行なったのだ。
 太郎は秘密をばらした僕に怒ったが、マリちゃんから「自分でも恥ずかしいと思うことに他人を巻き込むな」と叱られて、しょぼくれた。
 あんなに小さくなった太郎を僕は初めて見た。申し訳なかった。
 太郎は涙目で告白した。

「愛なんて使ってわるかった。俺の言いたいことはつまり、友情ってことなんだと思う」

 皮膚の下を暴いてほしい相手は僕以外に考えられない。だけど僕に対して抱いている感情は尊敬と信頼だけだ。つまり清らかな友情なんだと。

 妹の恋仇ではないと証明するために、太郎は引き出しに隠し持っていた避妊具を僕達に捧げた。「童貞卒業の日に使う予定だった」と言った。
 僕達の交際を深い部分まで含めて応援するという太郎なりの意思表示だったわけだが、マリちゃんは唖然として太郎の頬を引っ叩き(僕は人が平手打ちされるのを現実に初めて見た)、部屋から出ていった。

 残された僕に、太郎は謝った。

「わるかった」
「馬鹿太郎。僕、マリちゃんの機嫌をなおせる自信無いぞ。ゴムなんか出すなよ」
「そうじゃなくて、俺、こんなになっても、お前に暴いてほしいって思ってる」

 太郎のくせに、本当に申し訳なさそうに言ったんだ。

「やめてくれよ」

 と、僕は反射的に応えていた。

「謝るなよ」

 太郎のくせに、俺に謝ってくれるなと思った。
 お前が堂々としてくれてなきゃ、僕は背伸びしようと思えないのだから。

 僕が太郎に抱く感情と、太郎が僕に対して抱くそれは、きっとまったく別のものだった。

 だけど僕らは、自分の感情の名に相応しい言葉を【友情】以外に知らなかった。

 だから僕らは唯一無二の友達だった。


ーーーーー


 僕は無事現役で某大学の医学部に入学し、翌年にはマリちゃんも追っかけてきて後輩になった。僕らは変わらず太郎の願望を叶えるための良き共闘者だった。

 太郎はというと、なんと高校卒業を目前に失踪した。僕が受験合格を伝えた夜にだ。
 後からマリちゃんに聞いた話では、太郎は以前から進学せずに就職したいと主張して、親と対立していたらしい。ついにスマホと書き置きを残して家出した、と。

『働きます。大学には行かないので入学金は支払わないで大丈夫です。いつか帰ります』

 僕には一言も残されなかった。
 だけど僕には太郎の目的が分かっていた。手術台の上で僕に肉体をひらかれるための資金稼ぎに出たに違いなかった。

 予感は的中した。
 失踪から十日後に太郎から僕んち宛てにハガキが届いた。差出人の住所は空欄だったが、港町で働き始めたと書かれていた。末尾には貯金額も。
 ハガキは月に一度届いた。末尾の貯金額が着実に増えていった。
 僕らは結局、太郎の失踪から十五年も会わなかったが、手紙を毎月寄越す奴なんて他にいないから、不思議と僕らの縁は濃くなっていった気がする。

 大学卒業後、僕とマリちゃんは学会で知り合った教授との縁で渡米して、多数の臨床経験を重ねた。医学者向けに書く物語ならこの件が一番目を引くはずだが、これは僕と太郎の友情の物語だから、あえて記さない。
 大した志も無く、ただ友達に頼まれたという理由だけで医者になろうとする男が、何故、渡米まで出来たのかという質問には、家すら捨てて僕を頼った友人の期待に、万全の知識と技術をもって応じたかったからだと答えたい。

 僕とマリちゃんは帰国後に田舎の総合病院に就職した。
 表向きには僻地医療を支えたいからだとしたが、もちろん太郎の手術を行う際の障壁を取り除くためだった。
 僕は町外れのクリニックの院長と懇意になって、手術室を借りる算段をつけた。
 
 いよいよ四千万円を貯めた太郎との再会が実現する。

 この十五年間に太郎が何をしていたかというと、まあマメに働いていたわけだが、直近数年は遠洋漁業船に乗っていた。
 手元の金が増えるとつい遊びたくなるから、海上に自分を封じ込めたのだ。
 たまの上陸で船乗り仲間が一斉に歓楽街へ流れても、自分は船に残り、膝を抱えて朝が来るのを待ったとハガキに書かれてあって、僕は笑ってしまったっけ。

 十五年間分の太郎を、僕は知っていた。
 だけどハガキの文字から想像する太郎の顔は、ずっと高校生のままだった。
 クリニックの診察室で久方振りに再会したヤツは、二回りも体格が大きく、顎には無精髭が生えていた。

「老けたなあ」

 と、しみじみ感動した。
 僕は嬉しかった。涙ぐみもした。

 太郎は笑って言った。

「さあ、早く切ってくれよお!」

 海原で鍛えた快活な声。微塵も感慨が無い。

 この野郎、そういうところがマリちゃんを怒らせるんだぞ。
 案の定、後ろで彼女の溜め息が聞こえた。

ーーーーー

 
 結果を先に述べておく。
 
 僕は太郎の体を切れなかった。
 
 麻酔の眠りから覚めた太郎は激高して、僕を殴った。

「俺を裏切ったな。俺らの友情に背くのかよ。二十年間も一緒にやってきたんじゃねえのかよお!」

 僕には二度と会わない。死ぬまで許さないと言い捨てて、太郎は去っていった。
 僕は診察室の椅子に座って瞼を閉じ、彼の怒りの形相を網膜に焼き付けて、忘れまいとした。

 一言詫びたかったが出来なかったなぁ、と思った。

 本当は手術室に入る前から、こうなると分かっていた。
 太郎の期待に応えたくて、そのために多くの患者で訓練しているうちに、僕はまともな医者に成長してしまったのだ。月並みだが、命が続くことの奇跡性を知ってしまった。健康な体を傷つけることの愚かさを知ってしまった。
 太郎の人生に取り返しのつかぬ障害を負わせるかもしれない可能性を、恐れた。太郎の命を縮めかねないことを。

 これっきり。
 僕と太郎は赤の他人になった。僕とマリちゃんの結婚式にも太郎は参列してくれなかった。祝電で「二人の幸せを祈っている」と届いただけだ。

 それから十年後に太郎は死んだ。

 深酔いして、雨が降る路上で眠り、凍死したのだ。
 通報を受けて駆けつけた警察官の話だと、色濃い桃の花びらに埋もれて、笑いながら亡くなっていたらしい。

「花を見上げて、綺麗だなって思いながら亡くなったのかもしれませんね」

 苦しまずに亡くなったのかも。マリちゃんと両親は、太郎の最期が悲惨でなかったことに安堵した。

 通夜は実家で行われた。
 棺桶に眠る太郎を見て、僕は、どうせこんなに早く死んでしまうのなら、あの時に切ってやればよかったと思った。
 太郎の頬に触れ、首に触れ、帷子の下の腹に触れた。
 僕が切るはずだった腹だ。太郎はどんなに危うい仕事に就いても、怪我だけは避けたと自慢した。

「俺の肌の下は、悠斗にしか見せないからな」

 まるで貞淑な妻だ。
 思い出して、僕は苦笑った。

「今になって惜しくなるよ。お前の皮膚の下を、僕も見たかったなぁ」

 その時だった。
 太郎の腹を撫でていた僕の指先に、何かが触れた。

 僕はその感触に覚えがあった。
 義両親に許可を頂いて帷子を剥いた。青白い皮膚に五センチの縫合跡があった。
 僕と別れた後に病気したのかと思ったが、義両親は知らないと言う。

 他の誰かに【証明】をしたのだろうか。
 
 誰かが太郎の皮膚の下を見たのか。
 
 とたんに悔しくなった。
 僕らだけの半生が奪われた気分がした。
 
 太郎もこんな気持ちだったのだろうか。
 そう思うと、申し訳なさがこみあげた。僕は、僕らの青春を取り戻したくなった。

「太郎の腹を切らせてください」

 僕の無茶な申し出に、しかし義両親は「あの子もそれが本望だろうから」と言ってくれた。色々なこと諦めた様子だったけれど。

「悠斗君には最期まで迷惑をかけるね。どうやって切るの。包丁?」

 マリちゃんが笑った。「それじゃ事件になるよ」って。

「カミソリと縫い針を貸してあげて。悠斗君、私もいない方が良いよね」
「うん。僕らの約束だから」

 線香のにおいが立ち込める客間に、僕と太郎の二人きり。
 僕は長く息を吐いた。もう、切っても太郎を傷つけない。太郎の命を縮めないのだ。
 いっさいの恐怖が無くなると、僕は友人の体だというのに、少しも躊躇せずに刃を突き立てることができた。

 縫合跡に沿って切った。
 太郎の体から他人の痕跡が消えた。
 硬く乾いた太郎の皮膚は僕の手を拒んだが、僕は構わず切った。
 脂肪の膜が割れた途端、腐敗臭がムッとたち上った。綺麗なんてもんじゃなかった。死人の臓器である。

 しかし溶けてぬらりと光る内臓は、僕の訪れを待っていたようだった。
 だって、背面へ沈下した血肉の狭間にビニールの小封筒が隠されていたから。

 中に折りたたまれた白い紙が入っていた。

 僕は封を切り、紙を取り出した。
 紙の正体は写真だった。
 高校時代の僕と太郎のツーショットが、太郎の体の中に収められていたのだ!

 僕は泣いた。
 太郎はどうして僕らの写真を体に埋めたんだろう。証明の機会を失ってしまった友情を、本物だったと主張するためか。

 なんて無茶をするんだ、あの馬鹿は。
 もし異物反応が起こったら、――想像して、ぞっとした。
 異物を体内に埋め込んだせいで不調をきたし、太郎が行き倒れたのだとしたら……彼が死んだのは僕のせいだ!


 人生に『もしも』は通用しない。

 もし二人でスリラー映画を見なかったら。
 もし僕が医者にならなかったら。
 もし約束通りに腹を切っていたら。
 もし僕らの感情に、それぞれ別の名前をつけていたら――僕らの物語はまったく違う結末を迎えていたのではないか。


 今、太郎の腹から摘出した写真を眺めながら、僕は仕事をしている。
 かつて憧れた太陽みたいな笑顔に、思う。

 僕はきみと、老人になっても友達でいたかった。
 だけど、きみは花火のように刹那で美しい情を求めたね。
 それってやっぱり、愛だったんじゃないかって。 

(終)

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