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陸幼受験に備えての特訓

戦時中、若者の憧れは陸幼(陸軍幼年学校)、海兵(海軍兵学校・江田島)であった。軍人養成の代表的機関。昭和20年(1945年)4月、私が入学した旧制中学の校長は国保護(こくぼまもる)先生。如何にも軍国主義に相応しいお名前。私は入学直後から、陸幼を受験しろと指示され、校長室で一人特訓を受けた。終戦が8月、特訓は10月迄続いたと記憶している。今振り返っても、国保校長の話の内容を全然記憶していない。脚絆(ゲートル)が緩んでいて、注意されたことを覚えて居る位。心理的に拒絶していたのかど

    • 奉安殿を知る人は少なくなった

       戦前には、何処の小中学校にも、校門を入った処に「奉安殿」が祭られていた。そこには「天皇・皇后のご真影」と「教育勅語」が安置されていた。私の通った小学校にも有ったことを思い出す。ウイキペディアによると、奉安殿の建設は、教育勅語が制定された1910年代より全国で始まったとある。戦意高揚に使われたのである。私が入学した(昭和20年4月)旧制中学にも、校門を入った処に鎮座。入学直後から、私はこの奉安殿から「教育勅語」を奉戴して、式典会場まで運搬する役目を仰せつかった。何回この役目を

      • 私の住んでいる杉並区阿佐谷地区に、お母さんからお年寄りまで集える「まちサロンおきやんち」を開設します。6月4日オープン。5月には、壁塗り、板張りなどのワークショップをやります。出かけて下さい。

        #READYFOR #クラウドファンディング

        • 中高の6年間片道4キロを徒歩通学

          昭和20年4月旧制中学入学、通学に近畿日本鉄道(近鉄)で学校から2駅の所(至近駅が阿倉川)に住んで居た。当時電車は何時も寿司詰めで満員状態。現在のような状態でなく、ドアーから人がはみ出した状態で走行していた。私は、あの寿司詰め状態に耐えられなかった。皆さんは一昔前、後進国の風景写真等でバスの天井にまで人が乗っている満員バスの写真を見られたことがあると思う。将にあの状況であった。私は先輩2人と約4キロの徒歩通学を始めた。通学路途中に住んでいる人が1名おり、都合4名で徒歩通学した

        陸幼受験に備えての特訓

        • 奉安殿を知る人は少なくなった

        • 私の住んでいる杉並区阿佐谷地区に、お母さんからお年寄りまで集える「まちサロンおきやんち」を開設します。6月4日オープン。5月には、壁塗り、板張りなどのワークショップをやります。出かけて下さい。

        • 中高の6年間片道4キロを徒歩通学

          米軍機の攻撃を思い出す

          ウクライナへのロシアの侵攻画面をテレビで見て、昭和20年終戦直前の体験を思い出した。私は、昭和20年4月旧制中学校へ入学した、90歳の老人です。入学直前の3月、私の住んでいた四日市市は米軍の爆撃で市の中心部は焼き尽くされた。この頃、爆撃機B29の来襲は毎日のようで北陸方面への出撃の帰路と思われる或る日、頭上に焼夷弾が投下され、そのシューシューという落下音が未だに耳に残っている。幸い焼夷弾は風に流され、隣の部落に落下、我が家は無事だった。入学後、勤労動員で出動した農家の田圃の麦

          米軍機の攻撃を思い出す