演繹と帰納の違い

 演繹と帰納、どっちがどうだったかよくわからなくなるので、調べることが多いのだが、ネットで調べるとなぜか色々な説があり、本来対義語のはずなのに「それどっちも同じでは」と困惑する説も多く目撃したので、自分なりの言葉でまとめておく。

・演繹……普遍法則の適用
・帰納……類似事象からの法則化

 形としては演繹は一つの点から適用可能な事象に向かって線が伸びるもので、帰納は複数の枝葉が一つの点に集約していくようなイメージとなる。
 演繹は拡散、帰納は集約の視覚イメージだ。まさに対義語。もし、よくわからないならこれだけ覚えておけばいい。なんなら帰納という言葉から「一つの場所に帰って納まる」という視覚イメージを持てば忘れにくくなる。
 論理的と言われる人はこの二つの使い方を明確に分けて論を組み立てているようだ。
 論理的なのがいいとよく言われるが、それはこの構造が人にとってわかりやすいからだろう。おそらく「物語」の次くらいにはわかりやすいと思う。わかりにくいよりはわかりやすい方が好感度は高いだろう
 話は少し飛ぶが、この宇宙の法則を一言で私が言うならば「樹状」だ。一つが分岐し、ひたすら繰り返し複雑なものは想像の限界を超え複雑化していく。
 脳神経、血管、樹木、宇宙規模で見た河川、星団、銀河団……どこまで小さくしても、広大にしても樹状を見出せる。物理から精神に至るまで全ては樹状に分岐して複雑になっていく。
 そんな宇宙法則を利用した形にすれば直感的にわかりやすくなるのも頷ける。いや、本当にそうなのかはわからないが、少なくとも枝葉をイメージして関連付けされたものは個人的にも、わかりやすいと感じている。
 私はよく「マインドマップは『まとめ』には使えるが、発想関係には使えない」ということを言うが、それもこの樹状構造が脈絡だけを強力に作り出すものだからだ。
 発想は脈絡の中では生まれてこない。カオスからひょっこり顔を出す。脈絡はその後から芋蔓式(まさに樹状)に連想を繰り返すことで肉付けしていく要素である。
 確かに既存の要素から見落としや抜け漏れを見つけるという場合には機能すると思うが、それは発想ではない。発想は視覚イメージの新規の融合である。論理からそこを見出そうとしても難しいだろう。

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