自分用のメモではなく紹介
たまに「note(ブログ)は自分のメモ的に使用すればいい」的な言説を見かけるが、それには抵抗感がある。自分の文章が世の中になんの影響も無いとしても、人様が閲覧可能な場所に出すということは何かしらの反応が起きる可能性はあるからだ。
おそらくネタ切れを回避するためにハードルを下げる口実としてそういうことを言っているのだろうが、ローカルのメモではなく、こうして誰でも閲覧可能な場所に何かを書き出すということは何かしらの期待があると思う。かくいう自分も何かを期待している気がするのだが、それが何かいまいち判然としない。
note記事をメモにはしないという感覚だけが、なんとなくある状態だが、もしかすると、それは「何かを期待している」と考えるとわからないものかも知れない。
一定の品質を出す訓練
ここでやっていることは訓練に近いものかもしれない。それも限られた時間と現在持てるスキルだけでやる自主的な訓練だ。条件の中でクリアする感覚なので書き上がった時の達成感を考えるとゲームにも近い。
それをローカルのメモでやらずに世の中に出す理由は、緊張感を得るためだ。この緊張感が文章の品質を格段に変えてくれる。人様に見られても全く恥ずかしくない体裁を整えには、当たり前だが、意味のわかる文章にする必要がある。
ただ、自分しか読まないものだと、妥協までのハードルが低すぎて確実に品質が低下してしまう。
すでにメモはある
メモにあたるものは毎朝書く「ゼロメモ」や個人のスマホのリマインダーやメモ帳の中に入っている。
つまりメモとしての機能は毎日満足のいく水準に達している。それでも書き出す意欲がどこから湧いてくるのかが今回の問題となっている。
おそらくそれは上昇欲に近い、やはり訓練的なものだろう。訓練は好き勝手書いているだけでは片手落ちである。緊張感が多少でも必要である。それを利用させてもらう。恐怖感というのは完全に忌避すればいいものではなく、丁度いい距離を保つとスパイスや薬のように役立つこともある。
他人と未来の自分用
また、そうやって書き出したものは単なる訓練の残骸というわけでもなく、どこかにいる同じような感覚の誰か、他人の役に立つだけでもなく、読み直すに耐えるため、後々忘れた頃の自分にも役立つと思う。
こうして書き出したものも、読み直した後から加筆修正したい欲や、別の要素を追加したくもなるので、単にメモとして書くよりも有用なことが多い気がする。
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