誰が為にチャイムは鳴る
かなり久しぶりにnoteを書く。書くときは大概違和感を感じた時に決まっている。しかもその原因が高校時代からの友人であればなおさら都合がいい。ここにはそんな昔から付き合いのある人はいない。
彼は出会った時から教師を目指していた。教科は歴史。それなりに良い大学を出て、今は非常勤講師をしている。
そんな彼が、こんなツイートをしていた。
「俺は数人の為に授業がしたいんじゃない、社会を変えるために授業をしたいんだよ」
彼はとても資本主義の生み出す問題に敏感な人間で、男女平等や子供の貧困などにしっかりと目を向けて勉強している。そんな彼なので、上のようなことを言うのも頷ける。社会は今よりもより良く(より善く?)変わっていくべきだ。
その土台を作っていくのは授業を受ける生徒なのだし、その授業に感化される生徒の数が多くなることは良いことなのだ。ただ、俺は上の言い方が納得できない。生徒を「数」で捉えているような、そんな言い方が。
もっと生徒一人一人に向き合うことの方が大事じゃないのか。教師が授業を通して自己実現することは、生徒にとってそれほど良いことなのだろうか。
それよりも、生徒の苦しみを少しでも和らげて、次のステップ(進学、就職)で生徒が自己実現しやすくするための準備をしてあげる方が、よっぽど重要じゃなかろうか。
俺は人に何かを与えることができる人こそ良い人で、周りの人達を良くしていき、それが回り回って社会を良くしていけると思っている。だからいきなり「社会」なんて大きすぎる枠組みは変わらないと考えるし、もうちょっと規模を小さくして「クラスを良くするにはどうすればいいか」という議論も不毛で、答えは「一人一人が良くなるしかないです」としか考えていない。
では「良い人」はいかにして生まれるか?それは他の「良い人」に与えられることでしか生まれないと考える。社会を良くしたかったら生徒、いや人を1人変えるのが結局1番早いんじゃないかなと思いました。
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