蒸気機関車

ヤマモモと鉄道と人が結ぶ商売 桃売りアン小


 沖縄市の山内と宜野湾市大山、
そして那覇市には共通するフルーツがあります。

それは何か?実はヤマモモなのです。

今日では物流の発展と鉄道の消滅で消えてしまいましたが、
戦前の沖縄の初夏はヤマモモを売り歩く、
桃売りアン小(桃売り娘)の掛け声から始まりました。

沖縄民謡、桃売りアン小の元にもなった桃売り娘達ですが、

そこには、人と名産と鉄道のコラボという
ベストマッチがありました。

ヤマモモの産地山内と宜野湾市大山と那覇を結んだ軽便鉄道

沖縄市の山内は、ヤマモモの産地として
古くから知られていました。

伝説では、500年以上前に
山内村の地頭になった山内昌信が

中国から楊梅の苗を持ち帰り、
村に植えたものが繁茂したと言われています。

このヤマモモを売り歩く商売は
かなり昔からあったようです。

しかし、それだけでは山内のヤマモモが
沖縄全域に名前を知られるようには

なりませんでした。

1922年に沖縄軽便鉄道が開業し、
古波蔵から嘉手納間が開通すると

宜野湾の大山には駅舎が置かれました。
すると誰が始めたのか分かりませんが、

北谷駅で下車して山内や諸見里でヤマモモを仕入れて
再び鉄道に乗って一大消費地である首里・那覇に
ヤマモモを売り歩く商売である

桃売りアン小が成立したようです。

話題性も十分だった桃売りアン小


那覇でヤマモモを売ったのは、
宜野湾大山の娘たちでした。

以下の著書にも、在りし日の
桃売り娘達の光景が留められています。

ところで、大山の娘たちは
踊りの手振りの美しさだけでなく
ムム売イアン小(桃売り娘)としても
広くその名を世間に知られた
彼女達は、越来村(現沖縄市)の
ヤマチ・ムルンザトゥ(山内・諸見里)で
ヤマムムを仕入れ県鉄などで那覇に運んだ。
バーキ(ザル)に青い芭蕉の葉を敷き、
その上に熟れたヤマモモの実をいっぱい詰め込み
それを頭の上に載せて、那覇や首里の街々を
「ムム買ーンリソーリ」と呼び掛けて売りさばいた。
初夏を告げる、「ムム買ーンリソーリ」の声が
街の路地裏(スージ小)で聞こえるようになると
町方に住む人たちは、
ああ、今年も早、夏がやってきたのだなと
あらためて季節の変わり目をかみしめたのだと言う
「琉歌の里めぐり」青山洋二著

こうしてみると、桃売り娘たちは、
ヤマモモの季節を告げる風物詩として
那覇、首里の人々に認知されていた事が分かります。

若々しく熟したヤマモモを年頃の娘が売るというのも
初夏のイメージにハマっています。

これをシワシワオバァが売り歩いたり、
ガタイのいい男が売って歩いたとしたら
扱う商品は違わないにせよ
風物詩にはならなかったでしょう。

桃売り娘達が全県的な存在になったのは、

沖縄県営鉄道が営業をしていた
大正末から沖縄戦前にかけての事で

戦後は鉄道が廃れて
物流機構が変わった事から無くなりました。

それを考えると伝統の商いというよりは、
時代に即したキャッチ‐なサイドビジネス
という方が事実に近いと思います。

若い娘たちの売り子は健全なエロスを振りまき、
「ムム買ーンリソーリ」の掛け声に対して
「ドゥーシーティコーラ(あんたごと買うよ)」という
エロ親父の軽口が残っています。

しかし、沖縄民謡、桃売りアン小では桃売り娘は、
将来を誓った相手の着物を織るお金を稼ぐ為に
ヤマモモ売りに精を出していて
エロ親父の「あわよくば」の下心は桃売り娘たちの
商売スマイルで打ち砕かれてしまうのでした。

琉球・沖縄の歴史を紹介します。

http://blog.livedoor.jp/ryukyuhattuken/

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