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41番・つきしろの街線の歴史を調べてみた

「つきしろの街」とは、ディベロッパーであった沖縄大京観光株式会社(現・株式会社大京の沖縄支店)によって、佐敷町、知念村、玉城村(現在は合併して南城市)にまたがるエリアに造成された住宅街である。
1976年より入居が開始され、翌1977年からは、佐敷小学校・中学校への通学用スクールバスが、造成主である沖縄大京観光により運行を開始している$${^1}$$が、その2年後には那覇方面への一般路線バスも乗り入れを開始した。


1979年9月に路線バスが乗り入れ開始

つきしろの街へ乗り入れを開始したバス路線は、沖縄バスの「41番・つきしろの街線」である。住民の入居から約3年後、スクールバスの運行開始から約2年後の1979年9月から運行を開始した。

1979年09月 41番つきしろの街線運行

沖縄バス60年のあゆみ(2011年3月 沖縄バス発行)p.31

運行開始当初のルートを以下に示す。

運行開始当初の41番・つきしろの街線ほかの運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

系統番号は41番であるが、1つ前の番号が付与された40番・大里線からの派生路線ではなく、39番・百名線からの派生路線であり、運行ルートも39番・百名線と途中までまったく同経路であった。系統番号37番~40番が、那覇市から南城市方面のバス路線に付与されていたので、それに引き続く形で41番が付与されたのであろう。
なお、単独運行区間は、つきしろの街入口バス停を過ぎてからの約3km(4バス停)のみであった。

運行開始当初の41番・つきしろの街線の運行ルート(つきしろの街周辺の拡大図)
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

また、終点は「沖縄刑務所前」であったが、あくまで折返しの場所を確保するためだけの終点だったようで、行き先表示器では「つきしろの街」行きの表示であった。

行き先は「沖縄刑務所」ではなく「つきしろの街(月しろの街)」

運行本数は、新設当時からかなり少なく1日6本のみ$${^2}$$であったが、これが需要にあった本数だったためか、2008年12月23日に1日5本に減便されるまで、増減することは無かった。

休暇センター経由が新設

そもそも本線ですら1日6本しか運行されていなかったが、そのうちの那覇向けの夕方1本のみが沖縄厚生年金休暇センターを経由する便となった。

41番・つきしろの街線(休暇センター経由)の運行ルート(つきしろの街周辺の拡大図)
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

完全なる想定であるが、つきしろの街から休暇センターへのアクセスを目的とした便ではなく、休暇センターから那覇方面への需要を、39番・百名線ではなく、41番・つきしろの街線に一部担ってもらった形であろう。

2006年4月頃の休暇センター経由の運行時刻表
青枠の1便のみ、41番・つきしろの街線が担当していた

親慶原出張所管轄に変更?

沖縄バスの親慶原出張所は1964年9月には存在した営業所$${^3}$$であるが、初めてバス路線が営業所を発着するようになったのは、だいぶ後である2008年12月23日のことである。この日より39番・百名線の一部便が、親慶原出張所を起終点とすることになった。
41番・つきしろの街線は、この日のダイヤ改正でも変わらず沖縄刑務所前発着であったが、この時のダイヤ改正で親慶原出張所管轄に変更になった可能性がある。

2008年12月23日のダイヤ改正以前は、少なくとも朝と夜の便は、那覇営業所(旭町営業所)が管轄だったようで、那覇バスターミナルを出発した便が、沖縄刑務所前で15分~30分ほど待機したうえで折り返すダイヤであった。
具体的には、1998年当時の運行ダイヤで見てみると、以下のような運用であった。

1998年時点の運行時刻表
黄色着色部は、那覇から来た便が短時間の休憩後に折り返していた?

これが2008年12月23日のダイヤ改正後は、上記の朝の「下り1便」と夜の「下り6便」にあたる便が廃止となった。

2008年12月23日時点の運行時刻表
青色着色部が、親慶原出張所管轄となった?

つまり、親慶原出張所管轄に変わったことで、朝の「上り1便」は親慶原出張所から始発地の沖縄刑務所へ回送、夜の「下り6便」は終点の沖縄刑務所に到着後に親慶原出張所へ回送する運用に変わったようである。
早朝に那覇市内から住宅地であるつきしろの街への需要は無いだろうし、夜のつきしろの街から那覇市内への需要もないことから、適正な設定であろう。

親慶原出張所発着へ変更

2010年8月28日のダイヤ改正で、沖縄刑務所発着から親慶原出張所発着へと変更された。親慶原出張所と沖縄刑務所前との回送は無駄だと判断されたのだろうか。

2010年8月当時の41番・つきしろの街線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

この時の変更により、つきしろの街の中を周遊するルートとなり、沖縄刑務所前は廃止となった。つきしろの街内では、親慶原発・那覇行きは時計回り、那覇発・親慶原行きは反時計回りであった。

2010年8月当時の41番・つきしろの街線の運行ルート(つきしろの街周辺の拡大図)
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

南城市役所発着に変更

2019年10月1日に実施された「南城市地域公共交通再編実施計画」に基づき、南城市内を発着するバス路線が大幅に再編され、親慶原出張所を起終点としていたバス路線は、南城市役所を起終点とするように変更された。
ただ、41番・つきしろの街線に限っては、単純に起終点が親慶原出張所から南城市役所に変更されたわけではなく、百名方面へも足を延ばす運行ルートとなった。
一方で、運行本数は激減し、那覇バスターミナル行きは朝の1日2本、つきしろの街行き(南城市役所行き)は夜間の1日2本のみとなり、日中は同日より運行を開始したNバス(南城市コミュニティバス)が担うこととなった。

2019年10月当時の41番・つきしろの街線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

なお、単純に南城市役所発着とはならず百名経由となったのは、この日をもって、39番・百名線が、南城市役所止まりの39番・南城線となり、百名地区から那覇方面へは、南城市役所への乗り換えが必須となってしまったためだと想定される。朝の通勤・通学時間帯と夜の帰宅時間帯だけは、那覇と百名地区を乗り継ぎなしで行けるように、41番・つきしろの街線が補完する形となった。

再編前の運行ルート
那覇~百名は39番・百名線が担っていた
再編後の運行ルート
那覇~百名は41番・つきしろの街線が担うこととなった

なお、つきしろの街内では那覇発 or 那覇行きによって、時計回りか反時計回りかの違いが発生していたことに加え、百名方面へも足を延ばすことにより、運行ルートはさらに複雑となった。
以下に運行ルートを示す。

2019年10月当時の41番・つきしろの街線の運行ルート(百名周辺の拡大図)
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

南城市役所発・那覇バスターミナル行きは、南城市役所を出発し、つきしろの街を経由せずに百名に向かい、百名地区を時計回りに周回した後に、つきしろの街を時計回りで経由し、再び南城市役所へ戻って、そこから那覇バスターミナルへ向かう運行ルートであった。
那覇バスターミナル発・南城市役所行きは、那覇から来たバスが、まず南城市役所に立ち寄り、次につきしろの街を反時計回りで経由して、百名に向かい、百名地区を時計回りに周回した後に、南城市役所へ向かう運行ルートであった。
文章でも図でもかなり理解しづらい運行ルートであったが、1日2本のみとなり、利用者も限定されたので問題は無かったのかもしれない。

2022年3月に廃止

百名まで足を延ばした41番・つきしろの街線であったが、2022年3月31日をもって廃止された。廃止の理由としては「利用者の減少」とのことであった。

標記の件につきまして、系統41番「つきしろの街線」は利用者の減少に歯
止めがかからず、令和4年4月1日(金)より『新里坂~つきしろ~百名』間を廃止し、系統39番「南城線」に統合して運行致します。

【お知らせ】系統41番「つきしろの街線」の廃止について(2022年2月22日 沖縄バスWebサイト)

廃止の翌日からは41番・つきしろの街線の、南城市役所~つきしろの街の区間のみを引き継ぐ形で、Nバスに新系統が追加された。那覇方面とつきしろの街および百名地区の直通での需要は、通勤・通学・帰宅時間帯でも少なかったようだ。

那覇~つきしろの街の直通バスは全廃となった

脚注

  1. 平成5年度 業務概況(1993年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.20

  2. 昭和55年度 業務概況(1981年8月 沖縄県陸運事務所発行)p.26

  3. 沖縄バスFacebook 【沖縄バス/アーカイブスVOL.137】~今昔@親慶原出張所☆~


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