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泡瀬には無い東陽バス泡瀬営業所

東陽バスの泡瀬営業所は、同社の中部における拠点となるバス営業所である。泡瀬営業所と名乗るぐらいなので、沖縄市泡瀬にあるのだろうと普通は思うが、所在地は「泡瀬」どころか「沖縄市」でもなく、「うるま市前原」である。
このような住所とは異なる名称を営業所名に採用する事例は、豊見城村名嘉地に立地しながら、那覇市の地名を名乗る小禄営業所(那覇交通)でもみられた。

ただ、豊見城村名嘉地と那覇市小禄は隣通りの地区である一方で、うるま市前原と沖縄市泡瀬は隣接しておらず、間に「沖縄市古謝」「沖縄市桃原」を挟んでいるという点で事情が異なっている。


うるま市前原の泡瀬営業所

前述の通り、東陽バスの泡瀬営業所はうるま市内にあり、正確な住所でいうと「うるま市字前原386-2」である。

敷地が少しでも沖縄市に入っているということはなく、完全にうるま市内である。

東陽バス泡瀬偉業所 2010/12/18撮影
(国土地理院の空中写真【COK20101-C1B-6】を筆者が加工)

以前は沖縄市内にあった

2024年7月現在の泡瀬営業所は2代目であり、かつては今よりも南に位置したところに営業所が設置されていた。1993年8月当時の航空写真を以下に示す。

東陽バスの初代・泡瀬偉業所 1993/08/29撮影
(国土地理院の空中写真【OKC931-C40B-2】を筆者が加工)

初代から2代目への移転の詳細な時期は不明であるが、初代・泡瀬営業所前に設置されていた「泡瀬出張所前」バス停が「泡瀬二区」バス停に改称されたのが、1995年4月$${^1}$$~1996年3月$${^2}$$の間であるため、この期間内に移転したようである。

この初代・泡瀬営業所の立地は「沖縄市」であった。よって、移転により沖縄市からうるま市になったものの、名称を変えなかったため、うるま市にありながら沖縄市の地名である泡瀬が冠されている状態になってしまったようだ。

初代・泡瀬営業所も泡瀬には無かった

ここまで書くと『初代・泡瀬営業所が沖縄市泡瀬にあったので、2代目・泡瀬営業所も「泡瀬」を名乗っている』と思われてしまうが、初代・泡瀬営業所の正確な住所は「沖縄市古謝882$${^3}$$」であり、実は初代・泡瀬営業所も泡瀬には立地していなかった。
住所でいう泡瀬としては、泡瀬1丁目から6丁目まで存在するが、いずれも初代・泡瀬営業所よりもさらに南側に位置する町丁目であり、隣接すらしていなかった。

初代・泡瀬営業所と沖縄市泡瀬の位置関係
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

泡瀬バス停も泡瀬には無かった

そもそもなのだが、泡瀬営業所だけでなく、泡瀬バス停も泡瀬ではなく、沖縄市桃原1丁目に位置する。一方で、泡瀬三区入口バス停は、沖縄市泡瀬5丁目に位置し、堂々と泡瀬を名乗っていいはずなのだが、なぜか「入口」という修飾語がついている。

泡瀬にない泡瀬バス停と泡瀬にある泡瀬三区入口バス停
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

かつては泡瀬だった

いろいろ調べてみると、泡瀬の歴史に関する資料が見つかったので、下記に抜粋する。

かつての美里村(現在の沖縄市の一部)の村民は、終戦後の1946(昭和 21)年1月末に同村桃原内の米軍キャンプ跡地に設置された美浦区に移り住んだ。数ヶ月で村民たちは元の住所に帰っていったが、接収されたままの泡瀬の人々だけは残され、同年6月、美浦区は泡瀬一区に改称された。
その後、近隣の桃原・古謝に受け入れられ新しい居住区・泡瀬二区を造成した。元の泡瀬は1948(昭和23)年初頭に一旦返還されて泡瀬区と称されたが、再び軍に接収されてしまった。結局、泡瀬区の大部分が返還されたのは、沖縄の高度経済成長期の最中の1970(昭和45)年のことで、その間に泡瀬内海の埋め立て地に泡瀬三区が造成され、1969(昭和44)年には移住が始まっていた。

沖縄の戦後復興から高度経済成長の民俗学的考察(2018年2月 武井基晃 著)p.163

これを読み解くと、1946年6月に桃原に「泡瀬一区」が誕生し、その後に古謝に「泡瀬二区」、埋立地に「泡瀬三区」が誕生したようである。
1973年当時の国土地理院地図をみてみると、確かに「泡瀬一区」「泡瀬二区」「泡瀬三区」が地名として記載されている。

1973年当時の国土地理院地図(沖縄市泡瀬地区)
時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)を筆者が加工

この地図には区界の記載が無いが、泡瀬営業所は「泡瀬二区」内にあり、泡瀬バス停は「泡瀬一区」内にあり、泡瀬三区入口バス停は「泡瀬三区」の南端にあったのであろう。よって少なくとも1970年代までは、営業所、バス停ともに、住所と名称が一致していたことになる。

「泡瀬一区」「泡瀬二区」は、戦前までの泡瀬地区が米軍基地として収容されてしまったがゆえに、移住を余儀なくされた住民が居住地を置いたエリアだったようだ。
これらが、戦前の住所である「桃原」「古謝」に戻った詳細な時期は不明であるが、少なくとも1987年時点では『(泡瀬に)念願の路線バスが開通』という新聞記事があることから、この時点で「泡瀬一区」「泡瀬二区」は、泡瀬扱いではなかったようである。

念願だったバス運行が実現。人口増加の著しい沖縄市泡瀬(池宮城定雄自治会長、526世帯)に2日から路線バスが開通、「これで2キロも歩いて他字のバス停まで行かなくてすむ」と住民を喜ばせている。
 (中略)
運行を開始したのは東陽バス(株)(祖堅方政社長)の美東線。同線はこれまで、泡瀬出張所から高江洲、知花、コザ十字路、高原、大里入り口を回る循環線で、泡瀬は路線に入っていなかった。

念願の路線バスが開通/東陽バス美里線/喜ぶ泡瀬住民(1987年2月5日 沖縄タイムス)

1990年代までには住所からは「泡瀬」の名が消えたが、現在に至るまで営業所名とバス停名は変更されなかったため、「泡瀬」にない「泡瀬営業所」と「泡瀬バス停」が誕生した。

なお、自治会としては「泡瀬一区」「泡瀬二区」「泡瀬三区」の名残が残っており、泡瀬バス停があるエリアは「泡瀬第1自治会(旧・泡瀬一区)」、初代・泡瀬営業所があったエリアは「泡瀬第2自治会(旧・泡瀬二区)」、泡瀬三区入口バス停があるエリアは「泡瀬第3自治会(旧・泡瀬三区)」である。

自治会名にはかつて「泡瀬」だった名残が残っている
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

浦添市の小湾バス停も小湾に無い

余談であるが、初代・泡瀬営業所や泡瀬バス停のように、米軍基地として従来の居住地が収容されてしまったがゆえに、戦前まで居住していた住民が移住を余儀なくされ、住所とバス停名が一致しない事例としては、浦添市の小湾バス停も該当する。
「浦添市小湾」は国道58号の西側に位置する地区であるが、ほぼすべてのエリアが米軍基地として収用されたため、住民は「浦添市宮城」に移住を余儀なくされた。このような経緯があるため、浦添市宮城には「小湾自治会」が存在し、小湾地区からは離れている県道251号線(パイプライン通り)沿いには、自治会名に由来する小湾バス停が設置されている。

浦添市小湾には無い小湾バス停
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

脚注

  1. 平成7年度 業務概況(1995年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.23

  2. 平成8年度 業務概況(1996年7月 沖縄総合事務局陸運事務所発行)p.23

  3. バスルートマップ沖縄(1980年 運輸経済研究センター発行)p.48

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