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今帰仁村運天地区を発着するバス路線があった

沖縄県今帰仁村には、沖縄本島唯一の重要港湾である運天港が存在する。港名からもわかる通り、今帰仁村上運天に所在する。この上運天地区に隣接する運天地区を発着する71番・運天線という路線が存在した。


運行ルート

廃止直前の71番・運天線の運行ルートを以下に示す。

廃止直前の71番・運天線の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

現在も運行されている65番/66番・本部半島線と同様のルートで、名護市の名護バスターミナルから今帰仁村の仲宗根まで走り、仲宗根から分岐し、村道を北上して、途中で県道72号名護運天港線に合流した後に東に進み、終点の運天に向かうルートであった。
以下では廃止されてしまった71番・運天線の単独運行区間を見ていきたいと思う。

仲宗根~田原

71番・運天線と同様に運天に向かうやんばる急行バス(2013年3月16日運行開始)は、今帰仁村役場前バス停から運天バス停に向かう県道72号線がルートである。ただ、かつてはこの道路は存在せず、少し東側にある村道が、かつては県道72号線であり、71番・運天線もこちらを走っていた。後に歩道付きの新しい県道が整備されたのちもバスルートは変わらず旧道経由のままであった。

仲宗根~田原の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

なお、この旧道区間には田原というバス停が設置されていた。現在は「田原」という住所は無いが、かつての小字だろうか。

リゾートステーション前

田原バス停の次には、リゾートステーション前というバス停があった。現在、今帰仁村総合運動公園があるところに、かつて沖縄リゾートステーションという宿泊施設があり、それに由来するものである。

リゾートステーション前周辺の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

所謂、列車ホテルと呼ばれている宿泊施設で、海洋博の開催直前である1975年6月に開業した。なお、開業から約2年後の1977年3月14日当時のバス路線図には既にリゾートステーション前の記載があることから、開業とほぼ同時にバス停は設置されたのかもしれない。
宿泊施設自体はかなり短命で、1982年には閉鎖されてしまったようであるが、バス停は廃止されることなく、71番・運天線が廃止された2002年3月末まで存続した。

第一渡喜仁~第二渡喜仁~第三渡喜仁

その次には、第一渡喜仁、第二渡喜仁、第三渡喜仁という渡喜仁と名がつくバス停が連続して設置されていた。

第一渡喜仁~第三渡喜仁の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

「第一○○」「第二○○」というバス停は、沖縄本島の各地に存在するが、さすがに「第三○○」というバス停はかなり少なく、廃止されたものを含めても、把握できている限りでは「第三宇茂佐バス停(名護市に所在し65番/66番・本部半島線が停車)」「第三宇出那覇バス停(東村に所在し東村コミュニティバスが停車)」と、この「第三渡喜仁バス停」の3箇所のみである。この第一渡喜仁バス停から第三渡喜仁バス停までのすべてが、渡喜仁地区内に設置されているが、現在に至るまで住居表示がされていないこともあり、序数詞をつけて区別するしかなかったのであろう。
なお、渡喜仁自体はあまり広い地区ではなく、約1kmの間に3つのバス停が設置されている。現在だとコミュニティバスレベルの設置間隔だが、恐らく当時の集落ごとに停車する形でバス停が設置されたのだと思われる。

白間~徳山入口

第三渡喜仁バス停を過ぎると、白間、徳山入口という2つのバス停が続く。現在は運天という大字しか残っていないが、戦後すぐには運天の小字として、運天、徳山、クンジャ、白間の4つの小字が存在$${^1}$$したようで、バス停名はその名残のようである。

白間~徳山入口の運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

上運天~運天港~運天

徳山入口バス停の次が上運天バス停であり、ここからが上運天地区である。

上運天~運天の運行ルート
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上運天バス停の次が運天港バス停であり、冒頭でも書いた重要港湾である運天港の最寄りバス停であった。2023年10月現在では、やんばる急行バスの空港線が停車する。

運天

その次が、終点となる運天バス停である。
運天バス停は上運天地区に隣接する運天地区に所在していたが、運天地区内の他の集落とは山によって分断されており、規模としてはあまり大きくはない集落である。需要を考えれば1つ手前の運天港バス停が終点でもよさそうではあるが、かつてはここが運天港であり、さらに遡ると1916年(大正5年)まではここに現在でいう今帰仁村役場が存在し、今帰仁村の行政の中心地であった$${^2}$$。

当然ながら71番・運天線が運行を開始した戦後には、既に村役場は移転後であり、運天港も1963年7月に現在地に移転$${^3}$$していたようだが、この当時は、伊是名村や伊平屋村への航路は本部港発着であったためか、移転後の運天港よりも、旧・運天港周辺の集落の方が需要があったのかもしれない。

全区間を改めて

最後に単独区間を一度に見てみる。
なお、2023年10月現在は、やんばる急行バスの空港線が運行されているが、観光客向けということもあり停車バス停はかなり限られている。

71番・運天線の運行ルート(単独運行区間の抜粋)
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

歴史

1961年時点では運行開始済み

71番・運天線の運行開始時期は見つけきれていないが、少なくとも1961年時点のバス路線一覧$${^4}$$には記載がある。またこの時点で、沖縄バスと昭和バス(琉球バス交通の前々身)の2社によって1日10本(沖縄バス:4本/日、昭和バス:6本/日)運行されていたようだ。

末期は1日5本のみの運行

1961年時点で1日10本だった運行本数は、その3年後である1964年12月末時点$${^5}$$で微減し、1日8本となっており、さらに約10年後の1975年3月末時点$${^6}$$では1日4本と半減している。なお、1979年8月1日時点のバス路線一覧$${^7}$$によると、「1日おきに琉、沖で交互運行」という備考があることから、この当時から、実質的に共同運行的な運行がされていたようである。
一旦は1日4本まで減便されたが、1982年6月末時点$${^8}$$では1日6本になぜか微増されている。その後は、1993年12月28日の琉球バスと沖縄バスによる共同運行開始時に1日5本に微減されたが、廃止日までこの運行本数で維持された。なおこの共同運行開始当時、66番・本部半島線に1日1本だけ運天経由が設定されていたようである。

かつては運天港を経由してなかった

運行ルートについては、終点の運天バス停付近で変更されている。
廃止直前は、上運天から運天港を経由して、運天へと至るルートであったが、少なくとも1980年時点$${^9}$$では上運天から運天港を経由せず、かなり幅員の狭い運天トンネルを通り、運天に至るルートであったようだ。これは、運天港から運天までの区間の道路が供用されたのが1980年のこと$${^1}$$$${^0}$$であったためであるが、前述の通り伊是名村や伊平屋村への航路が運天港を発着しておらず、運天港を経由するほどの需要が無かったのかもしれない。

運天港周辺での運行ルート
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

運天港を経由するルートへ変更された詳細な時期は不明であるが、1985年3月時点$${^1}$$$${^1}$$では立ち寄らないルートで、1993年11月時点$${^1}$$$${^2}$$では立ち寄るルートとなっていることから、1985年4月~1993年11月の間に変更されたようである。なお、伊是名村や伊平屋村への航路が本部港発着から運天港発着へと変更されたのは、1988年10月1日$${^1}$$$${^3}$$と1990年10月1日$${^1}$$$${^4}$$のことであるので、この辺りの変更だろうか。

なおほかには、名護バスターミナルの移転により名護市内で一部経路が変更されているが、これはまた別の機会にまとめたいと思う。

2002年に廃止

71番・運天線は、1995年2月に最初の廃止通告が琉球バスと沖縄バスから今帰仁村に対して出されている$${^1}$$$${^5}$$。
当初は廃止に対して補助金を交付する案も検討されたようだが、平均乗車密度は1.8~2人というかなりの赤字路線だったようで、2002年3月31日をもって廃止となった。運天港の利用者はほぼ自家用車での訪問であったようで、観光客の利用も少なかったようである。

運天線は1日5便運行していたが、平均乗車密度は1.8-2人。1日の利用者数は28-30人だった。国、県、地元自治体、バス業者が参加する同協議会では、自治体が補助金を交付することも検討されたが、村の負担分が大きくなることから、村が路線沿いの住民らの意見を聞いた上で廃止を了承した。

「運天線」バス廃止/規制緩和県内で初/利用者が減り赤字(2002年4月7日 沖縄タイムス)

また同日をもって66番・本部半島線に1日1本のみ設定されていた運天経由も廃止となり、運天港への路線バスは全廃となった。

01年度の県協議会では、利用率の低さから「運天線」と「本部半島線(運天経由)」の2路線が廃止された。

北部バス路線、平良回り線の廃止内定(2002年12月3日 琉球新報)

なお2002年2月に道路運送法が改正され、バス路線の改廃が許可制から届け出制に変わったが、71番・運天線は規制緩和後の県内初の廃止事例となった。

今帰仁村の運天港と名護間で沖縄バスと琉球バスが共同運行してきた路線「運天線」が本年度から廃止された。路線廃止に対する規制緩和に伴い、県内の赤字路線の今後については、関係者が県生活交通確保協議会で1年前から話し合いを重ねているが、実際に路線が廃止されたのは県内初という。

「運天線」バス廃止/規制緩和県内で初/利用者が減り赤字(2002年4月7日 沖縄タイムス)

運天と運天原

71番・運天線の終点である今帰仁村上運天から、ワルミ水路(運天水道)を挟んだ対岸には名護市に属する屋我地島が存在しているが、その住所は名護市運天原である。海峡名(水路名)にもなっていることから、恐らくではあるが同一の由来であろう。
そして名護市運天原への路線バスは現在も72番・屋我地線として運行されており、その終点は運天原バス停である。
71番・運天線の終点が「運天」バス停で、72番・屋我地線の終点が「運天原」バス停と1文字違いであり、また少なからず共通の運行区間があるため、誤乗防止目的なのかもしれないが、71番・運天線の行き先表示は「運天」または「運天港」とバス停名だった一方で、72番・屋我地線の行き先表示は「運天原」とはならず「屋我地」であった。

運天バス停と運天原バス停
OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors

脚注

  1. 共同店と村落共同体(2)-沖縄本島中南部地域と離島の事例-(安仁屋政昭、玉城隆雄、堂前亮平 著)

  2. 今帰仁村の集落・運天(今帰仁村Webサイト)

  3. 水道工事・公有水面埋立(1970年 琉球政府建設局土木建築部土木課発行)p.46

  4. 沖縄バス争議 1961年(1961年 琉球政府労働局中央労働委員会事務局)p.114p.115

  5. 行政監察業務概況 1970年5月(1970年5月 琉球政府総務局行政部発行)p.76

  6. 昭和50年度 業務概況(1975年7月 沖縄県陸運事務所発行)p.27

  7. 昭和53年度 業務概況(1979年 沖縄県陸運事務所発行)p.28

  8. 昭和56年度 業務概況(1982年8月 沖縄県陸運事務所発行)p.28

  9. バスルートマップ沖縄(1980年 運輸経済研究センター発行)

  10. 広報なきじん No.214(1993年9月 今帰仁村発行)p.8

  11. 広報なきじん No.112(1985年3月 今帰仁村発行)p.3

  12. 運賃及び粁程表 平成5年11月1日改定(1993年11月 沖縄県バス協会発行)

  13. 広報なきじん No.155(1988年10月 今帰仁村発行)p.1

  14. 広報なきじん No.180(1990年11月 今帰仁村発行)p.1

  15. 奥、運天線の存続を/北部市町村会/「バス路線」で県に要請(1997年5月7日 沖縄タイムス)

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