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No.579 後奈良院への謎解き挑戦してみませんか?

日本最初のなぞなぞ集は「後奈良院御撰何曾」(ごならいんぎょせんなぞ)だそうです。後奈良院は1497年~1557年に生きた第105代の天皇です。このなぞなぞ集は、後奈良天皇の編で、室町時代後期の1516年(永正 13年)の成立。172題のなぞなぞが収められています。江戸時代後期の国学者・本居内遠(もとおりうちとお、1792年~1855年)の「後奈良院御撰何曾之解」には、ユニークな解説が施されています。
 
そのなぞなぞ集「後奈良院御撰何曾」の問題から一つを紹介します。
「母には二たびあひたれども、父には一度もあはず」
さて、何でしょう?答えは「くちびる」です。その理由は?

このなぞなぞに対して「後奈良院御撰何曾之解」には、次のように書かれています。
 「母は齒々の意、父は乳の意にて、上唇と下齒下唇と上齒とあふは二度なり。我乳は、わが唇のとゞかぬ物なれば、一度もあはぬ意にて唇と解たるなり。是は變じたる體の何曾にていとおもしろし。」
つまり、「母」は「歯歯」であり、上歯と下唇、下歯と上唇はそれぞれ2度接すると言っています。また「父」は「乳」の意で、自分の体の乳には自分の「唇」は届かないので1度も合わないのだというのです。なかなかの珍解釈で、斬新な発想ではあります。
 
国語学者の研究によれば、ハ行の子音は、古く(奈良時代まで?)はp音であり、やがてf音(平安時代以降?)に変化し、現在のようにh音になったのだと言われています。よって「母」が「fafa」もしくは「fawa」なら、唇は確かに二度会うことになりますし、「父」が「titi」もしくは「ティティ」という発音であれば、唇が一度も接することはないので、「くちびる」が答えということになるのだそうです。
 
ハ行の子音が、奈良時代あたりまでp音だったなら「母」を「papa」と呼んでいたことになるのでしょうか?こちらの方が謎で、笑っちゃいます。
 
さて、「後奈良院御撰何曾」のなぞなぞに「後奈良院御撰何曾之解」でどのように謎解きをしているか、幾つか紹介しますので、挑戦してみて下さい。答えは最後に掲げます。
(その1)「雪は下よりとけて水の上に添ふ」 さて、何でしょう?
「解」では、「ゆきの下の、きの字とけ去れば、ゆの一字となるを、みづの上のみの字にそへて(  )と解きたるなり」としています。

(その2)「秋の田の露おもげなるけしきかな」 さて、何でしょう?
「解」では、「秋の田の露おもきは、稻の穗の垂るさまにて、穗垂の意にて(  )と解たるなり」としています。

(その3)「しちくの中のうぐひすは、尾ばかりぞ見えける」 さて、何でしょう?
「解」では、「しちくは、紫竹と聞ゆるやうにいひて、意は七九なり。此數の間は八なり。うぐひすの尾ばかりは、すの字なり合せて(   )と解たるなり」としています。
 
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(その1)の答え 「弓」
(その2)の答え 「蛍」
(その3)の答え 「蓮(はちす)」
 
時代は違っても知的好奇心は変わらないことの謂いでしょうか。後奈良院の笑顔が思い浮かぶ、楽しい頭の体操でした。