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No.568 その人は、憎みきれないろくでなし?

個人情報保護の観点から、その御仁の名前はイニシャルにのみとどめたいと思います。というのも、旧同僚だったY先生は、私が弁当箱を広げたまま席でも外そうものなら、ブドウの少房の半分だけを食べ、裏返して証拠隠滅するという荒技の持ち主だったからです。
 
子供じみた悪癖の抜けきらない5歳年上の彼でした。私は、子どもの頃に大人から教えられた「人を見たら泥棒と思え」という戒めが、決して嘘ではないことを大人になって知りました。ご本人は、ぶどうの味わいを楽しみ、いつの間にか裏側の半分がなくなっていたブドウを見て豆鉄砲を食らったハトのような顔をしていた(であろう)私を見て又楽しむという、実にサディスティックな性癖の男でした。
 
ある日のこと、そのサディスト氏が、弁当の時間でもないのにニコニコしながら近づいてきたことがあり、私はとっさに身構えました。彼の専門は、お顔に似合わず理科です。
「森鴎外は文豪だったかも知れんが、軍医としては、汚点を残した人だったんだね。」
と、小鼻を膨らませながら得意げに語り始めました。なんでも、脚気になる陸軍兵士が多く、大変な数の死者が出たらしいのです。軍医だった鴎外ですが、脚気を細菌によるものだと考え、ビタミンB1不足との認識を持たなかったので、海軍が採った麦飯食の奨励を頑として行わなかった、そのために招いた人為的ミスだというのです。もう、随分前のお話です。
 
「江戸わずらい」として有名な「脚気」です。江戸時代の元禄~享保の時代(17世紀後半~18世紀前半)にかけて、江戸、京都、大坂等の大都市で、精白米が食べられるようになり、糠に豊富に含まれていたビタミンB1が欠乏したことが脚気の原因となった訳ですが、当時は、奇病・難病の扱いだったそうです。 
 
私は、江戸期の医師が、「脚気」をどの程度認識していたのか興味を持ちました。探し得たのは、「江戸時代の脚気について」(廖育群、『国際日本文化研究センター紀要』14、1996年7月発行)という研究論文でした。それには、「脚気」の病名が中国の歴史上で始めて使われたのは、何と晋の時代(265年~420年)だったとありました。驚きの研究発表です。
 
廖氏の研究成果に拠れば、日本では、江戸時代中期から後期にかけて、脚気の医書が、実に27冊も発行されていました。将軍から庶民まで脚気にかかるほど流行り、死亡していました。又、一部の脚気には梅毒に罹ってから出現する症状もあり、梅毒を脚気と誤診した医師の存在もありました。江戸時代中期以降の梅毒の医書は、これまた30冊も挙げられていました。
 
明治前夜、開国を強硬に推し進め機運の高まった日本は、隣国や欧米列強の国々と競い生き残るために、軍人の健康問題は必須の課題でした。軍医・森林太郎は日清・日露の戦争を控え、兵士の健康維持を担うことになります。軍隊において脚気の病の克服は、最大の懸案事項だったからです。1日4合~6合もの米が兵士に与えられていたと言います。軍部の方針が、皮肉にも脚気の温床となってしまっていたのでした。

陸軍の疾病統計調査によれば、1876年(明治9年)には、兵士1,000人中に脚気患者108人、1884年(明治17年)には脚気患者が263人、つまり、全体の25%が脚気にかかっていたと言います。その致死率も約2~6%で、大きな損失でした。

海軍医務局長・高木兼寛(たかきかねひろ)は、1875年(明治8年)~1880年(明治13年)のイギリス留学中に、ヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする日本の兵食に原因があることを察知しました。軍部の反対派を押し切り、1888年(明治21年)以降は麦飯に切り替え、海軍での脚気はほぼなくなったと言われています。

ところが、陸軍では、当時の軍医総監・石黒 忠悳(ただのり)が、陸軍一等軍医森林太郎が書いた論説を支持し、脚気伝染病説を信じていました。森林太郎(鴎外)は、日本食が西洋食に劣らぬことを強調し、高木兼寛に対して批判的な立場を堅持しました。医学的なビタミン欠乏と言う疾病概念がまだなかったことが、事態の悪化を招いたとも言えそうです。
 
日清戦争(明治27~28年)は、陸軍の戦死者がわずか1,000人弱だったのに対して、傷病患者約28万人、患者死亡約2万人、脚気患者に至っては約4万人という脚気の大流行を引き起こしていましたが、陸軍は、海軍に学ぼうとしませんでした。

更に、日露戦争(明治37~38年)では、陸軍の戦死者約4万6千人、傷病者35万人、そのうち脚気患者25万人(71%)。しかも、戦病死者3万7千人中、脚気による死者が約2万8千名(75%)にのぼりました。病根は、陸軍の体質にあったのです。

その陸軍の脚気対策に、森林太郎の誤りが深く関っていたことを、東京大学医学部衛生学教授山本俊一が、1981年(昭和56年)、『公衆衛生』という雑誌に「森林太郎」という題で「鴎外と脚気問題」というテーマで論じている中にあることを知りました。そのことは、「森鴎外研究の新課題」(小村昇、『日本学士院紀要』第58巻2号)で紹介されていました。

そんなことを気づかせたり考えさせたりしてくれる悪友Y先生でしたが、「憎みきれない、ろくでなし」の称号をほしいままにしながら退職して行かれました。